これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
小倉百人一首から、蝉丸の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。
また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。
ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。
目次
原文
画像転載元国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162
翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)
釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)
蝉丸
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関
字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)
現代語訳(歌意)
※逢坂(おうさか)の関にいおりを作って住んでおりましたが、そこに行きかう人を見て、よんだ歌。
これがあの、東国へ行く人も都へ帰る人もここで別れ、また、知っている人も知らない人もここで会うという逢坂の関なのだ。
※体言止め(たいげんどめ)。和歌を体言(名詞)でしめくくることを言います。
語釈(言葉の意味)・文法解説
※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。
詞書(ことばがき)
※詞書とは、和歌がよまれた事情を説明した短い文のことで、和歌の前につけられます。
相坂(あふさか)の関に庵室(あんじつ)を作りて住み侍(はべり)けるに、行き交(か)う人を見て(※逢坂の関にいおりを作って住んでおりましたが、そこに行きかう人を見て。)
※詞書の引用は『新日本古典文学大系 後撰和歌集』(片桐洋一、岩波書店、1990年、322ページ)によります。
あふさか【逢坂・相坂(おうさか)】
一般には「逢坂」と書くが、藤原定家は「相坂」と書くことが多かった。『五代集歌枕』『八雲御抄』等、古来の歌枕書は近江国とするが、近江・山城の国境の山が逢坂山である。ただしその中心をなす逢坂の関はまさしく近江国にある。
逢坂の関は大化二年(六四六)の設置であるが、延暦十四年(七九五)平安遷都の頃に一時廃止され(日本紀略)、その後天安元年(八五七)に再び設置された(文徳実録)。奈良時代にもすでに関所はあったわけであり、「我妹子(わぎもこ)に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れどあふよしもなし」(万葉集・巻十五)とか「近江道(あふみぢ)の 逢坂山に 手向(たむ)けして 我が越え行(ゆ)けば……」(同・巻十三)というような歌もあったが、この関を越えることかすなわち都との別離であり、いわゆる「人の国」へ足を踏み入れる第一歩であった平安貴族の感懐は格別のものであったはずである。都の人々と別れる所であるのに何故に「逢ふ坂」というのかと嘆くわけである。「かつ越えて別れもゆくか逢坂は人だのめなる名にこそありけれ」(古今集・離別・貫之)「逢坂の関しまさしきものならばあかず別るる君をとどめよ」(古今集・離別・万雄)などはその心をよんだものである。
逢坂の関での感懐をよんだ歌は確かに別離の場合が多いが、東国から帰って来る人にとっては、まさしく逢ふ坂の関であった。「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関」(後撰集・雑一・蝉丸。百人一首では第三句「別れては」)は、この関で別れることと逢うことを人生の象徴としてよんだものである。(後略)
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
(※逢坂山の周辺地図は公益社団法人 びわこビジターズビューローで見られます。)
補足:逢坂の関(おうさかのせき)
※逢坂の関は現在の京都府と滋賀県の県境にあったと考えられています。
作者:蝉丸(せみまる)について
生没年未詳。蝉丸の生まれた年も死んだ年もよくわかっていません。また、父母も未詳です。
伝説的な人物なので、実情はよくわかりません。
平家物語(へいけものがたり)
蝉丸に関する記述が見られるものの一つが『平家物語』(13世紀頃成立)です。これによると、蝉丸は醍醐(だいご)天皇の皇子だとされています。
※醍醐天皇は宇多天皇の子。光孝天皇の孫にあたります。『古今和歌集』の編纂(へんさん)を命じた天皇で、菅原道真(すがわらのみちざね)や藤原時平(ふじわらのときひら)が仕えていました。
●平家物語・海道下(かいどうくだり)
……四宮河原(しのみやがはら)になりぬれば、ここはむかし延喜(えんぎ)第四(だいし)の王子(わうじ)蝉丸の、関の嵐に心をすまし、琵琶(びは)をひき給(たま)ひしに、博雅(はくが)の三位(さんみ)と云ッし人、風の吹く日もふかぬ日も、雨のふる夜もふらぬ夜も、三年(みとせ)が間あゆみをはこびたち聞きて、彼(かの)三曲を伝へけむ、藁屋(わらや)の床(とこ)のいにしへも、思ひやられて哀れなり、……
※本文引用『新編日本古典文学全集 平家物語』(市古貞次、小学館、1994年、283ページ)
●現代語訳
京都の山科の四宮河原にさしかかると、ここはむかし、醍醐天皇の第四皇子の蝉丸が、関を吹きつける嵐に耳をすまし、琵琶をひいていらっしゃったところ、博雅三位という人(※源博雅(みなもとのひろまさ))が、風のふく日もふかない日も、雨のふる夜もふらない夜も、3年の間、毎日やってきて立ち聞きして、あの琵琶の三曲(※流泉・啄木・楊真操)を受けついだというが、その藁屋の床のむかしの様子も想像されて、趣き深い。
以上のように、逢坂山にいおりを作って住んでいたこと、醍醐天皇の皇子で琵琶の名手であったことなどが伝えられています。
謡曲「蝉丸」
この『平家物語』の伝説をもとにして作られたと考えられるのが、謡曲(ようきょく)(能)の「蝉丸」です。「延喜第四の御子蝉丸の宮にておはします(※1)」とあるとおり、蝉丸が醍醐天皇の皇子であるという話をふまえて作られています。
この「蝉丸」には、蝉丸が出家して僧侶になる場面が描かれるので、ここから蝉丸を僧侶として描く(坊主頭で描く)かるたが登場したのではないかと考えられます。(※「ぼうずめくり」というかるた遊びで、蝉丸を僧侶扱いするかしないかが問題になることがあります。)
※1……『新日本古典文学大系 謡曲百番』(西野春雄、岩波書店、1998年、582ページ)
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