ありまやま猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
小倉百人一首から、大弐三位の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。
また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。
ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。
目次
原文
画像転載元国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162
翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)
釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)
大弐三位
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)
現代語訳(歌意)・文法解説
※逢瀬(おうせ)が途絶えがちになった男が、「あなたが心変わりしたのではないかと気がかりです」などと言ってよこしたのに対して、よんだ歌。
有馬山にほど近い猪名の笹原に風が吹くと、笹の葉がそよそよと音をたてるように、さあ、そうですよ、あなたのことを忘れることがありましょうか、いや、けっして忘れません。
※「已然形 + ば」の形で、「~なので」「~すると」などの意味を表します。それぞれの意味は文脈によって判断します。「風吹けば」は「風が吹くと」という意味です。
※掛詞(かけことば)。音が同じことを利用して、ふたつの意味を表現することです。「そよ」は、風がそよそよと草葉を吹きわたる擬音(ぎおん)と、「そうですよ。それですよ」の意味を掛けます。
※「やは」は反語(はんご)(~だろうか、いや、~でない)の意味を表し、連体形で結びます。「やは・かは・めや」は反語の係助詞としてまとめて覚えます。係助詞と係り結びの解説は「古典の助詞の覚え方」をご覧ください。
古注釈『百人一首改観抄』(ひゃくにんいっしゅかいかんしょう)
▽「此歌(このうた)、有馬山を男に寄せ、猪名野の篠原をわが身になずらへて、男の物言ひおこせたるを有馬山より風の吹(ふき)おろすにたとへ、風に催されて篠のそよぐ心をもて、いでそよと続けたり。心は、いでそれよと同心したる詞(ことば)なり。人を忘るる心はなけれども、久(ひさし)う相見ねば、おぼつかなさはこなたにも同じことぞといふ心なり※1」(百人一首改観抄)。『新日本古典文学大系 後拾遺和歌集』(久保田淳・平田喜信、1994年、岩波書店、231ページ)
※1古注釈『百人一首改観抄』の現代語訳
この歌は、有馬山を恋人の男にことよせ、猪名の笹原を自分になぞらえて、男が不安な気持ちを伝えてきたのを有馬山から風が吹き下ろすことにたとえて、風に吹かれて草木がそよぐ様子によって、「さあ、そうですよ」と続けている。その心は、「さあ、そうですよ」と同意する言葉である。恋人を忘れる心づもりはないけれども、長いあいだ逢わないので、相手が心変わりしたのではないかと気がかりに思う気持は私も同じだ、と言う心である。
語釈(言葉の意味)
※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。
詞書(ことばがき)
※詞書とは、和歌のよまれた事情を説明する短い文のことで、和歌の前につけられます。
かれがれになる男の、おぼつかなくなどいひたるによめる(※逢瀬が途絶えがちになった男が、「あなたが心変わりしたのではないかと気がかりです」などと言ってよこしたのに対して、よんだ歌。)
※注
○おぼつかなく 心変りがしたのではないかと気がかりだの意。
※詞書と注の引用は『新日本古典文学大系 後拾遺和歌集』(231ページ)によります。
ありまやま
●ありま【有馬】
「有馬の湯」「有馬山」などとよまれた摂津国の歌枕。今の神戸市北区有馬町。六甲山の北にあたる。有馬温泉として有名。早く「あひ思はぬ人を思ふぞやまひなるなにか有馬の湯へも行くべき」(古今六帖)とよまれている。また「有馬山」は特定の山ではなくその周辺の山々の総称であるといわれている。『万葉集』巻七に「しなが鳥猪名野(ゐなの)を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿りはなくて」(新古今集にもある)とよまれたが、『百人一首』にもとられている「有馬山猪名の笹原(ささはら)風吹けばいでそよ人を忘れやはする」(後拾遺集・恋二・大弐三位)は有名である。
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
(※有馬温泉の周辺地図は有馬温泉観光協会公式サイトで見られます。)
ゐな
●ゐなの【猪名野(いなの)】
「猪名の笹原」「猪名の伏原」「猪名山」「猪名の湊」という形でもよまれた。摂津国の歌枕。今の兵庫県川西市・伊丹市・尼崎市を流れる猪名川流域の野。『万葉集』に「吾妹子(わぎもこ)に猪名野は見せつ名次山(なすきやま)角(つの)の松原いつか示さむ」(巻三・黒人)とよまれているが、同じ万葉歌でも、「しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿りはなくて」(巻七)の方が『新古今集』に再録されるほどに有名であり、神楽歌の「しなが鳥猪名の伏原とびわたるしぎが羽音おもしろきかな」(拾遺集)とともに後代に大きな影響を与えた。「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」(後拾遺集・恋二・第弐三位、百人一首)は『万葉集』の「有馬山夕霧立ちぬ」によって、夕刻の思いを笹原をわたる風に託して述べたが、「しなが鳥猪名の伏原風冴えて昆陽(こや)の池水氷しにけり」(金葉集・冬・仲実)「しなが鳥猪名の笹原わけゆけばはらひもあへず降るあられかな」(拾玉集)など、晩秋から初冬にかけての冷え冷えとした情景をよむ歌が多くなり、「霧」のほか「氷」「雪」「月」などがよくよまれる景物となった。
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
(※尼崎市「猪名川公園」の周辺地図はこちらから)
補足:有馬山猪名の笹原
※有馬と猪名の地図は下記のとおりです。
風吹けば
(※「風が吹くと」)
いで
(※さあ)
そよ
(※「そよ」の音と「其よ」を掛ける。)
●そよ
《サヤの母音交替形》
葉などが動いてかすかに立てる音。「旗すすき本葉も―に秋風の吹き来る夕(よひ)に」〈万二〇八九〉。「古歌に、昨日まで早苗とりしが何時のまに稲葉も―と秋風ぞ吹く」〈法華経直談鈔六本〉
●そよ
【其よ】
〘連語〙
《代名詞ソに終助詞ヨの添った語》
そうだよ。それだよ。「ひとりしていかにせましとわびつれば―とも前の荻(をぎ)ぞ答ふる」〈大和一四八〉。「あれは変化(へんげ)のものぞ。我こそ―」〈宇治拾遺八五〉
ひと【人】
➊物や動物に対する、人間。「わくらばに―とはあるを、人並みに吾も作るを」〈万八九二〉。「―ならば母が最愛子(まなご)そあさもよし紀の川の辺の妹と背の山」〈万一二〇九〉
➌《深い関心・愛情の対象としての人間》①意中の人物。夫。恋人。「わが思ふ―の言(こと)も告げ来ぬ」〈万五八三〉。「人柄は、宮の御―にて、いとよかるべし」〈源氏藤袴〉
やは
(※反語。「~だろうか、いや…ない」)
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