さびしさに宿を立ち出でて眺むればいづこも同じ秋の夕暮れ
小倉百人一首から、良暹法師の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。
また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。
ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。
目次
原文
画像転載元国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162
翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)
釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)
良暹法師
さびしさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ
字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)
現代語訳(歌意)・文法解説
※この和歌の題やよまれた事情はあきらかでない。
さびしさのために、住まいを出て、あたりをながめると、どこも同じようにわびしい秋の夕暮れであるよ。
※四句切れ?「同じ」が「秋の夕暮れ」にかからず、和歌がそこでいったん途切れると考えれば、四句切れと判断できます(終止形のところが和歌の切れ目となることが多いです)。いっぽう、「同じ」が連体修飾のはたらきをして「秋の夕暮れ」にかかるとも考えられます。『岩波古語辞典 補訂版』を見ると「連体形オナジキの形は、平安時代には漢文訓読体に使われ、和歌や女流文学では源氏物語以前は殆ど使われていない。」とあるので、「同じ」が「秋の夕暮れ」にかかると判断するのが妥当かと思われます。この場合は「句切れなし」です。
※参考:形容詞の活用表
※体言止め(たいげんどめ)。和歌が「夕暮れ」という体言(名詞)で終わっているので、「体言止め」です。
※「已然形 + ば」の形で、「~なので」「~すると」などの意味を表します。それぞれの意味は文脈から判断します。
助詞の解説は「古典の助詞の覚え方」にまとめましたのでご確認ください。
語釈(言葉の意味)
詞書(ことばがき)
※詞書とは、和歌がよまれた事情を説明する短い文のことで、和歌の前に置かれます。
題不知(だいしらず)(※和歌の題やよまれた事情が明らかでないこと。)
※詞書の引用は『新日本古典文学大系 後拾遺和歌集』(久保田淳・平田喜信、1994年、岩波書店、108ページ)によります。
さびしさに
「に」は原因・理由を示す格助詞。(『新日本古典文学大系 後拾遺和歌集』108ページ)
宿を立ち出でて
自分一人の寂寥感かと、家(庵)を出立って。(『新日本古典文学大系 後拾遺和歌集』108ページ)
ながむ【眺む】
現代語の「眺める」とは違って、ぼんやりと戸外に目をやりながら物思いにふけることをいう。(中略)
ところで、「ながめつつ人待つ宵の呼子鳥(よぶこどり)いづかたへとかゆきかへるらむ」(後撰集・恋五・寛湛法師母)のように、外を見出しながら宵にかよってくる男を待って、所在なげにぼんやりとしているのが「ながむ」であることによっても類推されるように、「ながむ」は「つれづれ」(※物事が長く続くこと。退屈なこと。 引用者補)という語とともによまれることが多かった。「つれづれとながむる空のほととぎすとふにつけてぞ音(ね)は鳴かれける」(後撰集・夏・読人不知)「つれづれのながめにまさる涙川袖のみ濡れて逢ふよしもなし」(古今集・恋三・敏行)のほか、和泉式部の歌などに特に多い。何も手につかず、所在なげにぼんやりと戸外に目をやる、すなわち「つれづれなる」状態でぼんやりと戸外に視線をやっている、これが「ながむ」であり「ながめ」であったのである。(後略)
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
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