0~10番歌

百人一首の意味と文法解説(7)天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも┃阿部仲麿

小倉百人一首解説:和歌の現代語訳・古文単語の意味・文法解説・品詞分解-7

投稿日:2018年3月10日 更新日:

あまのはらふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

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小倉百人一首から、阿部仲麿の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。

また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。

ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。

原文

ogura-hyakunin-isshu-7

百人一首(7)天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

画像転載元
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162

翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)

hyakuni-isshu-honkoku-7

百人一首(7)天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)

阿部仲麿
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
 

字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)

hyakunin-isshu-jibo-7

百人一首(7)天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも

現代語訳(歌意)・文法解説

※中国で月を見て、よんだ歌。

※この歌は次のような事情でよまれた。むかし、阿部仲麻呂が、政府派遣の留学生として中国(※当時は唐)へ送られたところ、たくさんの年数がたって、日本に帰れなくなったのだが、日本から再び送られてきた遣唐使(けんとうし)たちといっしょに連れだって、「日本に帰ろう」と思って出発した。そして、「明州(めいしゅう)」というところの海辺で、現地の人が送別会をしてくれた。夜になって、月がひじょうに明るくさしのぼったのを見て、よんだ和歌だと語り伝えられていることです。

振り向いて広々とした大空を見わたすと、そこには夜空にかかる月、あれは、春日にある三笠の山にのぼった月なのだなあ。

天の原振りさけ見れば

天の原振りさけ見れば

春日なる三笠の山に

春日なる三笠の山に

出でし月かも

出でし月かも

※「見る」は上一段動詞です。上一段動詞は種類がすくないので、「干る・射る・着る・煮る・似る・見る・居(ゐ)る・率(ゐ)る」をまとめて「ひいきにみゐる上一段」と覚えます。

ひいきにみゐる上一段

ひいきにみゐる上一段

動詞のなかで種類が多いのは四段・上二段・下二段の活用をする動詞です。

四段活用・上二段活用・下二段活用の動詞がたくさんある

四段活用・上二段活用・下二段活用の動詞がたくさんある

そのほかの動詞は「古典の動詞の活用表の覚え方」でご確認ください。

※「已然形 + ば」は文脈にあわせて「~なので」「~すると」などと訳します。接続助詞「ば」については「古典の助詞の覚え方」にくわしくまとめました。

※存在を表わす「なり」は格助詞「」にラ変動詞「あり」がくっついたものです。助動詞のくわしい解説は「古典の助動詞の活用表の覚え方」をご覧ください。
 

語釈(言葉の意味)

※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。
 

詞書(ことばがき)

※詞書とは、和歌の前についている、和歌がよまれた事情や背景をまとめた短い文のことを言います。

唐土(もろこし)にて月を見て、よみける

訳)中国で月を見て、よんだ歌。
 

左注(さちゅう)

※左注とは、和歌の左側についている、和歌の作者やよまれた背景を説明する文です。

この歌は、昔、仲麿を、唐土(もろこし)に物(もの)習(なら)はしに遣(つか)はしたりけるに、数多(あまた)の年を経(へ)て、え帰りまうで来(こ)ざりけるを、この国より又使(つかひ)まかり至りけるにたぐひて、まうで来(き)なむとて出(い)で立ちけるに、明州(めいしゅう)と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別(むまのはなむけ)しけり。夜に成りて、月のいと面白くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる

訳)この歌は次のような次第でよまれた和歌である。むかし、阿部仲麻呂を、政府派遣の留学生として中国へ送ったところ、たくさんの年数がたって、日本に帰れなくなったのだが、この国(日本のこと)からふたたびやってきた遣唐使(※752年の遣唐使)たちといっしょに連れだって、「日本に帰ろう」と思って出立した。そして、「明州」というところの海辺で、あの国(中国のこと)の人が送別会をしてくれた。夜になって、月がひじょうに明るくさしのぼったのを見て、よんだ和歌だと語り伝えられていることですよ。

※詞書と左注の引用は『新日本古典文学大系 古今和歌集』小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、133ページ)によります。
 

あまのはら【天の原】

①天つ神のすむと想像された天上の世界。たかまがはら。「吾が隠(こも)りますによりて―自(おのづか)ら闇(くら)く」〈記神代〉
②ひろびろとした大空。「―振り放(さ)け見れば」〈万一四七〉
 

ふりさけ

ふりさ・け【振り放け】
〘下二〙《サケは遠ざける意》
振り向いて遠くをのぞむ。「―・けて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも」〈万九九四〉
 

かすが【春日】

①大和国添上(そうのかみ)郡の郷名。平城京の東方にある丘陵地帯。「―なる三笠の山に」〈万一二九五〉。「添上郡、―郷」〈和名抄〉
 

なる

(※に + あり:「~にある」の意。)
 

みかさやま【三笠山】

奈良市、春日大社のうしろの山。笠を伏せたような円錐形の山であるゆえにその名がある。平城京の真東(まひがし)にあたるために印象深く、中国に渡った阿部仲麿が「あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(古今集・羇旅、百人一首)とよんだのも、いわば当然であった。(後略)
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年

 

かも

(※詠嘆の終助詞。「~なのだなあ」)
 

作者:阿部仲麻呂(あべのなかまろ)について

阿部(安倍/安部)仲麻呂は文武(もんむ)2年(698)~宝亀(ほうき)元年(770)、中務大輔船守の子。生まれた年を大宝(たいほう)元年(701)とする説もあります。

養老(ようろう)元年(717)、遣唐留学生として唐(とう)(いまの中国)にわたります。朝衡(ちょうこう)という中国名を名のって、玄宗皇帝(げんそうこうてい)に仕え、李白(りはく)や王維(おうい)などの詩人たちと交流しました。

天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年(753)、遣唐大使(けんとうたいし)藤原清河(ふじわらのきよかわ)とともに帰国しようとしたが、暴風にあって漂流し、唐に引き返しました。けっきょく、日本に帰ることはできず、唐で没しました。
 

遣唐使(けんとうし)

遣唐使は中国大陸の文化や政治を学ぶために派遣されました。派遣はぜんぶあわせて十数回におよびました。

一度に派遣する人数は、多いときで500人ほど。これを4隻の船にわけます。4隻の船にはそれぞれ、大使・副使・判官(じょう)・主典(さかん)が分乗したので、「よつのふね」とも呼ばれます。

廃止されたのは寛平(かんぴょう)6年(894)。唐で戦乱がつづき、情勢が不安定になったことが原因です。菅原道真の提案によって廃止が決まりました。

日本史語呂合わせ:遣唐使廃止(白紙にもどそう遣唐使)

日本史語呂合わせ:遣唐使廃止(白紙にもどそう遣唐使)

 

唐(618~907年)

唐は618年、李淵(りえん)によって建国されました。

世界史語呂合わせ:唐の建国から滅亡(ロイヤルホストで食わないと)

世界史語呂合わせ:唐の建国から滅亡(ロイヤルホストで食わないと)

首都長安(ちょうあん)(現在の西安)は、東西対称の碁盤の目のような区画で街が作られており、そのほかの東アジアの国々の首都のモデルになりました。平城京や平安京も長安の作りにならっています。

長安は、まわりのさまざまな国々から留学生や商人がおとずれる国際都市でした。彼らは唐の国の仕組みや文化などを自分の国に持ち帰り伝えました。阿倍仲麻呂も玄宗皇帝の時代に中国の政治制度を学んだ一人でしたが、帰国することはできませんでした。
 

唐の二つの安定期

唐の国内政治が安定して、特に強い国力を持っていた安定期が二つあります。貞観の治(じょうがんのち)と開元の治(かいげんのち)です。

貞観の治・開元の治

貞観の治・開元の治

2代目の太宗(たいそう)李世民(りせいみん)の時代に、国のさまざまな制度が整備されました。李世民の時代は政治が安定していたので「貞観の治」(じょうがんのち)と呼ばれています。

科挙の制度が完成したのも李世民の時代です。試験制度自体は、もともと隋(ずい)の楊堅(ようけん)によって導入されたものです。

また、この時代に国の役所の制度も整えられました。3つの省と6つの部から成り立っているので、「三省六部」(さんしょうりくぶ)と言われます。

唐の中央官制「三省六部」

唐の中央官制「三省六部」

李世民と、その臣下の者たちが交わした政治論をまとめた書物が、『貞観政要』(じょうがんせいよう)です。これは日本にも伝わり、特に愛読したのが徳川家康(とくがわいえやす)です。家康は学問好きで知られ、『貞観政要』を愛読書とするだけでなく、自ら出版もしました。

くわしくは「印刷博物館」のHPをご覧ください。
http://www.printing-museum.org/collection/looking/04_06.html

『貞観政要』を読んでみたい方は『新釈漢文大系』をご覧ください。

 

玄宗皇帝の開元の治(713~741年)

唐の第6代皇帝、玄宗の時代はひじょうに安定した政治だったので、「開元の治」(かいげんのち)と呼ばれています。しかし、治世の後半は楊貴妃(ようきひ)を寵愛(ちょうあい)したことで政治が乱れてしまいました。

玄宗の時代に対処しなければならない一番の問題は異民族でした。そこで導入されたのが、募兵制(ぼへいせい)と呼ばれる傭兵(ようへい)制度です。傭兵とはお金で兵士を雇うことです。

そして、それらの傭兵をたばねる節度使(せつどし)と呼ばれる指揮官を設置しました。節度使は首都から離れた辺境地域に散らばって、警備の任務にあたりました。最初に設置されたのは10か所です。

玄宗の治世の最初の40年ほどは、これらの政策がうまくいき、国内の情勢は安定していました。

安史(あんし)の乱(755~763)

楊貴妃はもともと玄宗の皇子の妃でしたが、玄宗が楊貴妃を見初めて、745年頃、自分の貴妃としました。

玄宗は楊貴妃に夢中になって政治をおろそかにするようになります。また、楊貴妃のいとこにあたる楊国忠(ようこくちゅう)を、皇帝の補佐役である宰相(さいしょう)に任命して優遇しました。

そのような玄宗の政治に不満を持ったのが節度使の安禄山(あんろくざん)でした。安禄山は節度使を3つも兼任するほどの実力者でしたが、楊国忠との権力争いにやぶれ、史思明(ししめい)とともに兵を挙げます。

長安は反乱軍に占領され、玄宗と楊貴妃らは逃げましたが、逃げる途中で、楊貴妃は戦乱の原因になったという理由で楊国忠とともに処刑されました。

唐は反乱の鎮圧に苦労し、ウイグルの協力を得てようやくおさめましたが、国の力はおとろえてしまいました。

反乱の指導者である安禄山と史思明の、二人の頭文字を取って「安史の乱」と言います。

安史の乱

安史の乱

なお、白居易(はくきょい)(772~846年)は玄宗と楊貴妃の物語を『長恨歌』(ちょうごんか)にまとめました。

白居易(白楽天(はくらくてん)とも言う)の詩文は日本で好んで読まれました。

●参考文献
・『詳説世界史 改訂版』佐藤次高ほか、2008年、山川出版社
・『詳説日本史 改訂版』石井進ほか、2009年、山川出版社
・『はじめからわかる世界史B 古代~近代』佐藤幸夫、2007年、学習研究社
 

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あきぜに ぎりす はるぎて
あきたの こころてに はるよの
ぬれば こころ かたの
あさふの ひとを ひといさ
あさぼらけ たびは ひとをし
あさぼらけ すてふ くからに
ひきの やこの ととぎす
あはしま びしさに みかもり
あはとも ぶれど みかはら
みての つゆに ばやな
あふとの みのえの のくの
あまかぜ をはやみ しのの
あまはら さごの らさめの
あららむ のおとは ぐりあひて
あらふく のうらに しきや
ありけの わかれ ともに
ありやま のをよ らはで
しへの をかも むぐら
いまむと ちぎりきし やまはに
いまただ ちぎり やまとは
りける やぶる されば
みわび みれば のとを
やまに ばねの よのなか
にきく ながらむ よのなか
おほやま ながへば すがら
おほなく なげつつ こめて
ひわび なげとて わがほは
とだに のよは わがでは
さぎの なにおはば わするる
かぜよぐ なには わすじの
かぜいたみ なには わたのはら
きみがため はなそふ わたのはら
きみがため はないろは ぬれば
らやま

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