あまつかぜ雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ
小倉百人一首から、僧正遍昭の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。
また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。
ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。
目次
原文
画像転載元
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162
翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)
釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)
僧正遍昭
天つ風 雲の通ひぢ 吹き閉ぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ
字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)
現代語訳(歌意)・文法解説
※五節(ごせち)の舞姫を見て、よんだ歌。
天を吹く風よ、雲の間の通り道を吹き閉じてしまってくれ。五節に舞う少女の姿をしばらくとどめておきたいのだ。
※助動詞の解説は「古典の助動詞の活用表の覚え方」をご覧ください。
※下二段動詞の活用は「古典の動詞の活用表の覚え方」でご確認ください。
語釈(言葉の意味)
※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。
詞書(ことばがき)
※詞書とは、和歌のよまれた事情や背景を説明した短い文で、和歌の前につけます。
五節舞姫(ごせちのまひひめ)を見て、よめる(※五節の舞姫を見て、よんだ歌)
※詞書の引用は『新日本古典文学大系 古今和歌集』(小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、264ページ)によります。
あまつかぜ
●あまつ【天つ】
〘連語〙《ツは連体助詞。「天つ」は「天の」よりも古い語と認められる。天界の、天界にある、の意。平安時代に入っては、大空の意にも用いる。→あま(天)》
●―かぜ【天つ風】
空を吹く風。「―雲の通ひ路吹きとぢよ」〈古今八七二〉
をとめ【処女】
《古くは「をとこ(壮士)」の対。ヲトはヲチ(変若)と同根。若い生命力が活動すること。メは女。上代では結婚期にある少女。特に宮廷に奉仕する若い官女の意に使われ、平安時代以後は女性一般の名はヲンナにゆずり、ヲトメは(五節の)舞姫の意》
①未婚の少女。「風のむた寄せ来る波に漁(いざ)りする海人(あま)の―が裳の裾濡れぬ」〈万三六六一〉。「未通女(をとめ)壮士(をとこ)の行きつどひかがふかがひに」〈万一七五九〉。「少女、此を烏等咩(をとめ)と云ふ」〈紀神代上〉。「乙女、ヲトメ、又作二童女一」〈文明本節用集〉
③舞姫。「―らが少女さびすと唐玉を手本に巻かし同輩児(よちこ)らと手携はりて遊びけむ時の盛りを」〈万八〇四〉。「五節の舞姫を見てよめる。あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよ―の姿しばしとどめむ」〈古今八七二〉。「昔御目とまり給ひし―の姿を思し出づ」〈源氏少女〉。「天人をば―といふ。…―とは舞ひをする女を云」〈能因歌枕〉
ごせち【五節】
《左伝、昭公元年にある音律の五節、すなわち、遅・速・本・末・中声に基づくとも、また、天武天皇が、吉野宮で琴を弾じた際、天女が舞い降り、その袖を五度翻した故事によるともいう》
①新嘗祭(にいなめまつり)・大嘗祭(おおなめまつり)に行なわれた少女楽の公事。十一月の中の丑・寅・夘・辰の四日にわたる。その間、五節の参り、帳台の試み、御前の試み、殿上の淵酔(えんすい)、童女御覧(わらわごらん)、豊明節会(とよのあかりのせちえ)、五節の舞などの行事がある。「雑舞幷せて大歌―等を奏す」〈日本後紀大同三・一一・一七〉
●―のまひ‥マイ【五節の舞】
五節に舞う少女の舞。新嘗祭の翌日、辰の日に行なわれる。「大歌幷(ならび)に―を奏し」〈延喜式践祚大嘗祭〉
●にひなへ ニイナエ【新嘗】
《ニヒ(新穀)ノ(助詞)アヘ(饗)の約。新穀を差しあげる神事の意》
誰もまだ手をつけていない新穀を捧げて神を祭り、自らも食べて、その年の収穫を感謝する祭儀。潔斎して、他人を家に入れなかった。「にはなひ」「にひなめ」とも。「新粟(わせ)の―して、家内諱忌(ものいみ)せり」〈常陸風土記〉。「今日は―の直らひの豊明(とよのあかり)聞し召す日にあり。然るに昨日の冬至の日に雨ふりて、地(つち)も潤(うるお)ひ」〈続紀神護景雲三・一一・二八〉
作者:僧正遍昭(そうじょうへんじょう)について
桓武天皇の孫
遍昭は「遍照」とも書きます。俗名(ぞくみょう)(出家する前の名前)は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。弘仁(こうにん)7年(816)~寛平(かんぴょう)2年(890)。良岑安世(やすよ)の八男で、桓武(かんむ)天皇の孫にあたります。
同時代の人に、光孝天皇(こうこうてんのう)、在原行平(ありわらのゆきひら)、在原業平(ありわらのなりひら)、源融(みなもとのとおる)などがいます。
子供に素性法師(そせいほうし)がいます。
天台宗(てんだいしゅう)との関係
仁明(にんみょう)天皇(810~850年)に重用されましたが、嘉祥(かじょう)3年(850)に天皇が崩御(ほうぎょ)(亡くなること)したことをきっかけに出家し、比叡山(ひえいざん)にのぼって円仁(えんにん)・円珍(えんちん)に天台(てんだい)(法華経を根本的な経典とする仏教の一派。鑑真が日本に伝え、伝教大師最澄が広めた。)を学びます。
そして仁和(にんな)元年(885)に僧正(そうじょう)(天皇から授けられる僧官の最高位)になり、12月には光孝天皇から七十賀(七十歳の祝い)を贈られています。
元慶寺創設
京都の花山(かさん)に元慶寺(がんぎょうじ/がんけいじ)を創設したことから、花山僧正(かざんそうじょう)とも言われます。
※元慶寺のくわしい情報は「京都観光Navi」でご確認ください。
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000035
六歌仙(ろっかせん)
僧正遍照は六歌仙の一人です。
六歌仙とは、905年につくられた『古今和歌集』の仮名序(かなじょ)(漢文ではなく仮名文で書いた序文だから「仮名序」と言う)に、紀貫之(きのつらゆき)がすぐれた歌人として名前をあげた6人のことを指します。遍昭の歌に対する貫之の評価は次のとおりです。本文引用は『新日本古典文学大系 古今和歌集』(13ページ)によります。
僧正遍昭は、歌の様(さま)は得たれども、誠(まこと)少なし。たとへば、絵に描ける女を見て、徒(いたづ)らに心を動かすがごとし。(※僧正遍昭は、歌のよみぶりは良いけれど、言葉の真実味に欠ける。たとえば、絵に描いた女性を見て、むなしく思いみだれるようなものだ。)
六歌仙は遍昭のほかに、在原業平(ありわらのなりひら)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰法師(きせんほうし)、大友黒主(おおとものくろぬし)、小野小町(おののこまち)があげられています。
三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)
僧正遍昭は三十六歌仙の一人にあげられています。
三十六歌仙とは、平安中期に藤原公任(ふじわらのきんとう)(966~1041年)がつくった『三十六人撰』(『三十六人集』とも言う)にもとづく36人のすぐれた歌人のことを指します。
百人一首の現代語訳と文法解説はこちらで確認
こちらは小倉百人一首の現代語訳一覧です。それぞれの歌の解説ページに移動することもできます。