住江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ
小倉百人一首から、藤原敏行朝臣の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。
また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。
ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。
目次
原文
画像転載元国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162
翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)
釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)
藤原敏行朝臣
住江の 岸に寄る波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)
現代語訳(歌意)・文法解説
住の江の岸によせる波ではないけれど、昼だけでなく夜までも、どうしてあの人は夢の中の通い路で人目をさけているのだろうか。
※序詞(じょことば)とは、言葉の意味や音の連想から、ほかの言葉をみちびきだすことです。同じようなはたらきをする枕詞(まくらことば)が5音(5文字)におさまるのに対して、序詞はそれよりも長い音数(文字数)です。※係り結びや係助詞については「古典の助詞の覚え方」にまとめました。
語釈(言葉の意味)
※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。
すみのえ【住吉】
→すみよし。「―の吾がすめ神にぬさまつり」〈万四四〇八〉
●すみよし【住吉】
①摂津国の地名。「摂津国住吉、須三与之(すみよし)郡」〈和名抄〉
▽奈良時代には「住吉」をスミノエと読んだが、平安時代に入ってから、スミヨシと読むようになった。
●すみのえ【墨江】・すみよし【住吉】
大阪市住吉区の一帯(今は住吉区のほかに住之江区もあるが、そのほとんどは埋め立て地である)。昔は住吉神社のすぐ近くまで海があった。『万葉集』には「すみのえ」を「須美乃延」「須美乃江」「墨江」「墨之江」などと表記しているが、「住吉」と表記した二十九例も、「吉」は「エシ」「エ」ともよまれたがゆえに同じく「スミノエ」を真名に表記したものであり、要するに本来は「スミノエ」であったものが「住吉」という字をあてたために「スミヨシ」ともよむようになり、「スミヨシ」という地名をつくってしまったというのが通説である。(後略)
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
寄る波
○よる浪
「よ(寄)る」は引きつけられて自然に近づくの意。同音反復で「よる(夜)さへや」を出す。名義抄「倚・傍・寄 ヨル」。(『新日本古典文学大系 古今和歌集』小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、176ページ)
さへ
(※副助詞「~までも」)
夢の通ひ路
●ゆめのかよひぢ ‥カヨイ‥ 【夢の通路】
夢の中で、恋しい人の許へ通って行く道。「住江の岸による波よるさへや―人めよぐらむ」〈古今五五九〉
●ゆめぢ【夢路(ゆめじ)】
現実に逢えない男女が、あるいは現実に逢ってもなお逢いたい男女が「夢で逢いたい」とよむ発想は、すでに『万葉集』からあったが、平安時代に入ると、「恋ひて寝(ぬ)る夢路にかよふ魂(たましひ)のなるるかひなくうとき君かな」(後撰集・恋四・読人不知)のように、魂が「夢路」をたどって相手に逢いに行くという表現が一般的になった。「限りなき思ひのままに夜も来(こ)む夢路をさへに人はとがめじ」(古今集・恋三・小町)と「夢路」であれば人目を気にしなくてもよいと言ったり、(中略)「恋ふれどもあふ夜のなきは忘草夢路にさへや生ひ茂るらむ」(古今集・恋五・読人不知)と夢にても逢えない理由を夢路に生える忘れ草に求めたりしているのである。なお「住の江の岸による浪よるさへや夢の通ひ路(ぢ)人目避(よ)くらむ」(古今集・恋二・敏行、百人一首)の「夢の通ひぢ」は「夢路」をくわしく言ったもの、また「恋ひわびてうち寝(ぬ)る中に行きかよふ夢の直路(ただぢ)はうつつならなむ」(古今集・恋二・敏行)の「夢の直路」は直線コース・最短コースの「夢路」の意である。(後略)
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
よく
よ・き【避き】
〘上二・四段〙《平安時代、四段にも活用》
避ける。まわり道をする。「家人の使なるらし春雨の―・くれど我を濡らさく思へば」〈万一六九七〉。「この女の家、はた―・きぬ道なりければ」〈源氏・帚木〉。「逢ふことの山彦にしてよそならば人目も我は―・かずぞあらまし」〈貫之集五〉「ひさかたの天つ空より影見れば―・所無き秋の夜の月」〈貫之集四〉
らむ
(※目前原因推量:なぜ~なのだろう)
作者:藤原敏行(ふじわらのとしゆき)について
生年未詳。藤原敏行の生まれた年はよくわかっていません。没年は、延喜(えんぎ)元年(901)とも延喜7年(907)とも言われています。
按察使(あぜち)富士麿(ふじまろ)の長男。
※按察使……地方行政を監督するために、奈良時代に全国各地に設置された官職です。平安時代以降は陸奥(むつ)・出羽(でわ)のみに置かれ、名ばかりの官職になりました。
紀貫之は親戚にあたります。
仁和(にんな)4年(888)五位蔵人(くろうど)、寛平(かんぴょう)9年(897)従四位上(じゅしいのじょう)右兵衛督(うひょうえのかみ)になりました。
六衛府(りくえふ)
衛府は、宮中の警固や、行幸(ぎょうこう/みゆき)(天皇がでかけること)の警備などを担当する役所のことです。
最初は衛門(えもん)・左衛士(さえじ)・右衛士(うえじ)・左兵衛(さひょうえ)・右兵衛(うひょうえ)の五衛府(ごえふ)でした。
その後、さまざまな変遷を経て、弘仁(こうにん)2年(811)から、左近衛(さこんえ)・右近衛(うこんえ)・左兵衛(さひょうえ)・右兵衛(うひょうえ)・左衛門(さえもん)・右衛門(うえもん)の六衛府になりました。
官庁の幹部は基本的に、「かみ・すけ・じょう・さかん」の4つにわかれるので、右兵衛督は右兵衛府の最高位です。
三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)
藤原敏行は三十六歌仙の一人にかぞえられます。
三十六歌仙とは、平安時代中期に藤原公任(ふじわらのきんとう)(966~1041年)がつくった『三十六人集』(『三十六人撰』とも言う)にもとづく36人のすぐれた歌人のことを言います。
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