陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに
小倉百人一首から、河原左大臣(源融)の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。
また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。
ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。
目次
原文
画像転載元国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162
翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)
釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)
河原左大臣
みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに
字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)
現代語訳(歌意)・文法解説
陸奥国の信夫郡で作られる忍草のすり染めの模様が乱れているように、あなた以外の誰かのせいで思い乱れた私ではないのに。
※音や意味から、ある特定の言葉を導きだす言葉を序詞(じょことば)と言い、同じような働きをする枕詞(まくらことば)よりも音数(文字数)が多いのが特徴です。
※連用形接続の助動詞はぜんぶで「き・けり・つ・ぬ・たり・たし・けむ」の7つです。そのほかの接続は「古典の助動詞の活用表の覚え方」でご確認ください。
語釈(言葉の意味)
※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。
みちのく【陸奥】
《ミチ(道)ノオク(奥)の約。和銅五年、出羽国が分置されるまでは、東海・東山両道の奥、すなわち奥羽地方全体をさした》
旧国名の一。東山道八国の一で、今の福島・宮城・岩手・青森の諸県。奥州。むつ。「―の安太多良(あだたら)真弓」〈万三四三七東歌〉
しのぶもぢずり
●しのぶ【忍】
①草の名。しのぶぐさ。「軒の―ぞ所得がほに青みわたれる」〈源氏橋姫〉
●―ずり【忍摺・信夫摺】
織物の模様を摺り出す方法の一。また、その摺り模様の衣。忍草の葉・茎を布に摺りつけて、捩(もじ)れたような模様をつけたものという。一説、奥州信夫(しのぶ)郡に産する織物の模様。「しのぶもぢずり」とも。「この男、―の狩衣をなむ着たりける」〈伊勢一〉
●―もぢずり【忍捩摺・信夫捩摺】
《「忍摺り」の模様が捩(もじ)れ乱れているからとも、捩れ乱れた模様のある石に布をあてて摺ったからともいう》
「しのぶずり」に同じ。「みちのくの―誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」〈伊勢一〉
●―の乱れ【忍ぶの乱れ】
人目を避けた好きごと。「大殿には絶え絶えまかで給ふ。―やと疑ひ聞ゆる事もありしかど」〈源氏帚木〉
▽伊勢物語に「春日野の若紫のすり衣―限り知られず」とあり、もとは、忍摺りの模様の乱れの意。転じて、ひそかに人を恋い慕う心の乱れの意。
●もぢ・り【捩り】
一〘四段〙ねじる。よじる。「舞ふべき限り、すぢり―・り、ゑい声を出して」〈宇治拾遺三〉
●す・り
一〘四段〙
➊【擦り・磨り・摩り】①物と物をこすり合わす。「立ちをどり足―・り叫び」〈万九〇四〉。「『あが君あが君』と向ひて手を―・るに」〈源氏紅葉賀〉
➋【摺り・刷り】①(草木の汁などを布に)こすりつけて着色する。「小萩が花を衣(きぬ)に―・り」〈万三五七六東歌〉。「山藍(やまあゐ)に―・れる竹の節〔ノ模様ハ〕松の緑に見えまがひ」〈源氏若菜下〉
●しのぶ【信夫】
「信夫の里」「信夫の森」「信夫山」という形でもよくよまれた陸奥(みちのく)の歌枕。岩代国、今の福島県福島市。源融の「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに」(古今集・恋四)によって有名になり、早速それを本歌取りした『伊勢物語』第一段の「春日野の若紫の摺り衣しのぶの乱れ限り知られず」によって「信夫摺(しのぶずり)」が信夫の地の名産として知られるようになった。「世とともに恋をしのぶのすり衣乱れがちなる我が心かな」(重之集)などその影響を受けた歌は多いが、いずれも「乱れ」をよみ込んだ恋の歌であった。(後略)
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
(※公益社団法人 京都染織文化協会のサイトで「摺染」の画像を見られます。)
たれ【誰】
〘代〙《不定称》
①だれ。「梅の花―か浮かべし酒杯の上に」〈万八四〇〉
②だれだれ。だれそれ。不定の人をかりにとりたてていう。「なほ―となくて二条院に迎へてむ」〈源氏夕顔〉
そめ
そ・め【染め・初め】
〘下二〙《染ミの他動詞形》
①(衣などに染料で)色をつける。「色深(ぶか)く背なが衣は―・めましを」〈万四四二四〉
④深く思いを寄せる。「とにかく心を―・めけむだにくやしく」〈源氏総角〉
なくに
〘連語〙
《打消の助動詞ズのク語法ナクと助詞ニとの複合》
…でないのに。「明日香川川淀(かはよど)去らず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあら―」〈万三二五〉。「花だにもまだ咲か―うぐひすの鳴く一声を春と思はむ」〈後撰三六〉
作者:河原左大臣(かわらのさだいじん) 源融(みなもとのとおる)について
嵯峨天皇の子
弘仁(こうにん)13年(822)~寛平(かんぴょう)7年(895)。源融は嵯峨(さが)天皇(在位809~823年)の皇子ですが、臣籍降下(しんせきこうか)(皇族の身分を離れて臣下の身分になること)しました。
父親の嵯峨天皇は字を書くのが上手で、書道にすぐれているので、三筆(さんぴつ)の一人にかぞえられています。
※平安初期の三筆 …… 嵯峨天皇・空海・橘逸勢(たちばなのはやなり)
上の系図を見てのとおり、源融は在原行平(ありわらのゆきひら)や在原業平(ありわらのなりひら)と同世代です。
左大臣(さだいじん)
源融は従一位(じゅいちい)左大臣になりました。
左大臣は関白(かんぱく)・摂政(せっしょう)、太政大臣(だじょうだいじん/だいじょうだいじん)に続く官位です。
従一位は、一位を正(しょう)・従(じゅ)の2段階にわけたうちの上の階級を指します。
また、源融は京都、鴨川(かもがわ)の六条の河原に別荘をつくり、それが河原院(かわらのいん)と言われたことから、融を河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ぶようになりました。
河原院と宮城県塩竃市
塩竃(しおがま)は松島湾にある名所ですが、融はその景色を河原院の庭園に再現したと言われています。その模様は『伊勢物語』81段に見えます。
原文
むかし、左のおほいまうちぎみいまそがりけり。賀茂河のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。十月(かんなづき)のつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王(みこ)たちおはしまさせて、夜(よ)ひと夜(よ)、酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐおきな、板敷(いたじき)のしたにはひ歩(あり)きて、人にみなよませはててよめる。
塩竃にいつか来(き)にけむ朝なぎに釣(つり)する船はここによらなむ
となむよみけるは。陸奥(みち)の国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国のなかに、塩竃といふ所に似たる所なかりけり。さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、塩竃にいつか来にけむとよめりける。
訳
むかし、左大臣(※源融)がいらっしゃった。賀茂河のほとり、六条のあたりに、家をたいへん趣きぶかく造って、住んでいらっしゃった。十月の末ごろ、菊の花がきれいな紅色になって、紅葉がさまざまに見えるときに、親王たちをお招きして、一晩中、酒を飲んだり管絃の遊びをしたりして、夜が明けてくる頃に、人々は、この屋敷が趣きぶかいことをほめる和歌をよんだ。そこにいた乞食のおじいさんは、板敷の下にうろついていて、人がみんなよみ終えるのを待ってから、このように歌をよんだ。
いったい塩竃にいつ来たのだろうか。朝のおだやかな海で釣りをする舟は、ここに寄って来てほしいものだ。(そうすれば、この塩竃のような景色がもっと素晴らしくなるから。)
とよんだとは。陸奥の国に行ったところ、ふしぎと趣きぶかい所が多かった。日本の六十余りの国々のなかに、塩竃という所に似ている場所はなかった。だから、あのおじいさんは、特に塩竃のようなこの庭園の景色をほめて、「塩竃にいつ来たのだろう」とよんだのだった。
※本文引用は『新編日本古典文学全集』(片桐洋一・高橋正治・福井貞助・清水好子、1994年、小学館、182・183ページ)によります。
百人一首に採録された和歌も、東北の名産と言われる「信夫摺(しのぶずり)」をよんだ歌なので、源融は東北地方に縁のある人物だと言えますね。
百人一首の現代語訳と文法解説はこちらで確認
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