六歌仙とは、905年につくられた『古今和歌集』の仮名序(漢文ではなく仮名で書いた序文だから「仮名序」と言う)に、紀貫之がすぐれた歌人として名前をあげた6人の歌人、すなわち僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主を指します。小倉百人一首には6人の中から黒主をのぞいた5人の和歌がおさめられています。
百人一首の六歌仙の歌
歌番号を押すとそれぞれの歌の現代語訳・品詞分解のページに移動します。
本文 | 作者 | |
8 | わがいほはみやこのたつみしかぞすむ、よをうぢやまとひとはいふなり | 喜撰法師 |
9 | はなのいろはうつりにけりないたづらに、わがみよにふるながめせしまに | 小野小町 |
12 | あまつかぜくものかよひぢふきとぢよ、をとめのすがたしばしとどめむ | 僧正遍昭 |
17 | ちはやぶるかみよもきかずたつたがは、からくれなゐにみづくくるとは | 在原業平 |
22 | ふくからにあきのくさきのしをるれば、むべやまかぜをあらしといふらむ | 文屋康秀 |
紀貫之による評価(古今和歌集・仮名序)
紀貫之が『古今和歌集』の仮名序で6人の歌人に下した評価は次のとおりです。いずれも手放しで高評価を与えているわけではありません。
僧正遍昭
僧正遍昭は、歌の様は得たれども、誠少なし。たとへば、絵に描ける女を見て、徒らに心を動かすがごとし。
現代語訳)僧正遍昭は、歌のよみぶりは良いけれど、言葉の真実味に欠ける。たとえて言えば、絵に描いた女性を見て、むなしく思いみだれるようなものだ。
在原業平
在原業平は、その心余りて、言葉足らず。萎める花の、色無くて、匂ひ残れるがごとし。
現代語訳)在原業平は、情感はあふれるほどだが、表現する言葉がじゅうぶんではない。たとえて言えば、色が悪くなって、香りばかりが残っているしぼんだ花のようなものだ。
文屋康秀
文屋康秀は、言葉は巧みにて、その様身に負はず。言はば、商人の、良き衣着たらむがごとし。
現代語訳)文屋康秀は、言葉は巧みだが、作者の品格にあわない。たとえて言えば、商人が自分に不釣りあいな上等な衣服を着ているようなものだ。
喜撰法師
宇治山の僧喜撰は、言葉微かにして、始め、終り、確かならず。言はば、秋の月を見るに、暁の雲に、遭へるがごとし。
現代語訳)宇治山に住んだ僧侶、喜撰は、言葉がはっきりせず、始めから終わりまで筋が通らない。たとえて言えば、秋の月を見ようとするけれど、明け方の雲にさえぎられるようなものだ。
小野小町
哀れなる様にて、強からず。言はば、好き女の、悩める所有るに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。
現代語訳)しみじみとした感じで、弱々しい。たとえて言えば、美しい女性が病気にこまっているところがあるのに似ている。弱々しい詠みぶりなのは、女性の歌だからだろう。
大友黒主
大伴の黒主は、その様、卑し。言はば、薪負へる山人の、花の陰に休めるがごとし。
現代語訳)大友黒主は歌のよみぶりが卑しい。たとえて言えば、たきぎを背負った木こりが花の陰に休んでいるようなものだ。
●本文引用:『新日本古典文学大系 古今和歌集』小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、13~15ページ