わたの原やそしまかけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまのつりぶね
小倉百人一首から、参議篁(小野篁)の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。
また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。
ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。
目次
原文
画像転載元国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162
翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)
釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)
参議篁
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟
字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)
現代語訳(歌意)・文法解説
※小野篁(おののたかむら)が隠岐(おき)の国(※今の島根県)に流刑(るけい)で流されたときに、「舟に乗って出立した」と言って、京にいる人に書き送った歌。
「ひろびろとした海へ、多くの島々をめざして舟を漕ぎ出して行った」と、京の都にいる人々に告げてくれ、漁師の釣舟よ。
※体言止め(たいげんどめ)。和歌を体言(名詞)でしめくくることを言います。「釣り舟」という体言で和歌が終わります。
※格助詞「と」の前は、人の言ったことや思ったことを表わします。「と」の直前で「」にくくって「。」をうつと、文を把握しやすくなります。「『……』と言って」「『……』と思って」などと訳します。上の和歌の場合は、「『多くの島々をめざして舟を漕ぎだしていった』と、~」と訳します。
※完了の意味を表わす助動詞「ぬ」は連用形に接続します。連用形接続の助動詞は、「き・けり・つ・ぬ・たり・たし・けむ」の7種類です。そのほかの助動詞の解説は「古典の助動詞の活用表の覚え方」をご覧ください。
語釈(言葉の意味)
※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。
詞書(ことばがき)
※詞書とは、和歌の前についている、和歌の成立事情を説明した短い文です。
隠岐国(おきのくに)に流されける時に、舟に乗り出で立つとて、京なる人のもとに遣(つか)はしける(※隠岐の国に流されたときに、「舟に乗って出立した」と言って、京にいる人に書き送った歌。)
▽「近・中・遠」と分ける流刑のうち最も重い遠流(おんる)の時の歌。摂津国(せっつのくに)(※今の大阪府)の難波(なにわ)から、因幡国(いなばのくに)(※今の鳥取県)の境港(さかいみなと)からなど、出港地の説が多い。隠岐国は、京へ三十五日、京から十八日の行程(延喜主計式)で、陸奥国(むつのくに)・出羽国(でわのくに)・佐渡国(さどのくに)・壱岐島(いきのしま)・対馬島(つしまとう)と共に遠国(おんごく)の中でも特に遠くて防衛上で大事な「辺境」の地(軍防令・関市令、延喜民部式)。
※詞書と注の引用は『新日本古典文学大系 古今和歌集』(小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、134ページ)によります。適宜、引用者が補注とふりがなを足しました。
わたのはら
●わた【海】
うみ。「―の底沖つ深江の海上(うなかみ)の子負(こふ)の原に」〈万八一三〉
●わたのはら【海の原】
《後にワダノハラと濁音にも》
広広とした海。大海。「―八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟」〈古今四〇七〉。「―と云ふ時は、たを濁る。また清んでも読むぞ」〈古活字本日本書紀抄下〉
●わたのはら【海原】
「わたのそこ(海底)」は『万葉集』にあるが、「わたなか(海中)」「わたのはら」は『古今集』以後に用いられるようになったようである。広々とした大海のこと。隠岐へ流される時に小野篁がよんだという「わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと人には告(つ)げよ海人(あま)の釣舟」(古今集・羇旅、百人一首)はあまりにも有名であり、以後もその影響を受けた歌が多かった。「わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白浪」(詞花集・雑下・忠通)「わたの原はるかに波をへだて来て都に出でし月を見るかな」(千載集・羇旅・西行)なども例外ではない。
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
やそしま【八十島】
①多くの島。「百隈(ももくま)の道は来にしをまた更に―過ぎて別れか行かむ」〈万四三四九防人〉
かけて
か・け【懸け・掛け】
一〘下二〙《起源を同じくする四段活用の動詞「掻き」「懸き」が意味分化するにつれて、下二段活用に転じて成立した語。物の端を目ざす対象の(側面の)一点にくっつけ、食い込ませ、あるいは固定して、物の重みのすべてをそこにゆだねる意》
➊①ひっかけてさげる。「斎杙(いくひ)には鏡を―・け、真杙(まくひ)には真玉を―・け」〈紀歌謡九〇〉。「千引の岩を七ばかり首に―・けむも」〈万七四三〉
➍目標と関係をつける。作用を目的のものに及ぼす。①目標にする。「阿波の山―・けて漕ぐ舟泊り知らずも」〈万九九八〉
ひと【人】
《生物としての人間。社会的に一人前の人格として認められる人間。また、特に自分が深い関心や愛着を抱いている人物。また、社会的に無視できない人物をいう。→もの(者)》
➊物や動物に対する、人間。「わくらばに―とはあるを、人並みに吾も作るを」〈万八九二〉。「―ならば母が最愛子(まなご)そあさもよし紀の川の辺の妹と背の山」〈万一二〇九〉
➌《深い関心・愛情の対象としての人間》①意中の人物。夫。恋人。「わが思ふ―の言(こと)も告げ来ぬ」〈万五八三〉。「人柄は、宮の御―にて、いとよかるべし」〈源氏藤袴〉
➍《社会的に自分と対立する人間》①広い世間の人人。「汝をと吾(あ)を―そ離(さ)くなる」〈万六六〇〉。「―は皆今は〔ワガ髪〕長しとたけと言へど君が見し髪乱れたりとも」〈万一二四〉
つりぶね【釣舟】
釣をする舟。「飼飯(けひ)の海のには良くあらし刈り薦(こも)の乱れて出づ見ゆ海人の―」〈万二五六〉
作者:参議篁(さんぎたかむら) 小野篁(おののたかむら)について
延暦(えんりゃく)21年(802)~仁寿(にんじゅ)2年(852)。小野岑守(みねもり)の長男。
大内記(だいないき)(内記は宮中の書記係のことで、大内記はその上位の地位のこと。※紀友則のページを参照)、大宰少弐(だざいのしょうに)(大宰府の次官で、大宰大弐に次ぐ官職)を歴任し、『令義解』(りょうのぎげ)(養老令(ようろうりょう)の注釈書)の作成にもたずさわりました。
漢詩文をよく作りましたが、和歌もよみました。
承和(じょうわ)元年(834)に遣唐副使に任ぜられましたが、遣唐大使の藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)と争って行かなかったため、嵯峨上皇(源融の父)の怒りにふれて隠岐へ流罪となりました。
※遣唐使は中国大陸の文化や政治を学ぶために派遣されました。一度に派遣する人数は多いときで500人ほどで、これを4隻の船にわけます。4隻の船にはそれぞれ、大使・副使・判官(じょう)・主典(さかん)が分乗したので、「よつのふね」とも呼ばれます。篁は大陸へわたることができませんでしたが、阿部仲麻呂(あべのなかまろ)は遣唐使として実際に中国へわたりました。
参議(さんぎ)
小野篁はのちに流罪をゆるされて京にもどります。
そして、参議(さんぎ)、従三位(じゅさんみ)にのぼったため、官位にちなんで野宰相(やさいしょう)・野相公(やしょうこう)と呼ばれました(宰相・相公は参議のこと)。
参議は大納言(だいなごん)・中納言(ちゅうなごん)に次ぐ位で、四位以上の者から任命されました。参議は公卿(くぎょう)の一員です(公は太政大臣・左大臣・右大臣のこと、卿は大納言・中納言・参議のことを言う)。
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