ひとはいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔のかににほひける
小倉百人一首から、紀貫之の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。
また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。
ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。
目次
原文
画像転載元国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162
翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)
釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)
紀貫之
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける
字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)
現代語訳(歌意)・文法解説
※初瀬(はつせ/はせ)にある長谷寺(はせでら)に参詣するたびに泊まった人の家に、長い間泊まらずにいて、いくらか時間が経ったあとに訪ねたところ、その家の主人は「このように、たしかに泊まる所はありますよ」と言いだしたので、そこに立っていた梅の木から、花が咲いている枝を折りとって、よんだ歌。
人のほうは、心が変わったのか、さあ分かりません。昔なじみのこの里では、花が昔の通りの香りで匂っていることです。
※係り結びは「古典の助詞の覚え方」でご確認ください。
※長谷寺の公式HPはこちらから。http://www.hasedera.or.jp/
語釈(言葉の意味)
※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。
詞書(ことばがき)
※詞書とは和歌の前についている短い説明文のことです。
初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程経て後に至れりければ、かの家の主、かく定かになむ宿りはあると、言ひ出だして侍ければ、そこに立てりける梅の花を折りて、よめる(※初瀬にある長谷寺に参詣するたびに泊まった人の家に、長い間泊まらずにいて、時間が経った後に訪ねたところ、その家の主人は「このように確かに泊まる所はありますよ」と言いだしたので、そこに立っていた梅の木から、花が咲いている枝を折り取って、よんだ歌。 引用者補)
○かく定かに…
こんな風にちゃんと泊る所がありますよとやや皮肉に言う。
(※以上『新日本古典文学大系 古今和歌集』小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、30ページから引用。)
ひと【人】
▽「人」は直接には「あるじ(主人)」を言うが、広く、「花」に対する「人」をも暗に含める。「かく定かに宿りは変はらずあると言へる詞を受けて、誠にその宿りの香のみぞ昔に変はらず匂ひける、されども、あるじの心は変はりしやらん、変はらぬもいさ知らずとの心なり」(教端抄)。(『新日本古典文学大系 古今和歌集』小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、31ページ)
いさ【否・不知】
①相手の言葉に対して、「さあ…知らない」「さあ…分らない」と否定的な応答をするに使う語。「―とを聞こせ(知ラヌトオッシャイ)わが名告(の)らすな」〈万二七一〇〉。「人は我はなき名の惜しければ」〈古今六三〇〉
ふるさと【古里・故郷】
①古びて荒れた里。昔、都などのあった土地。「―の飛鳥(あすか)はあれどあをによし平城(なら)の明日香(あすか)を見らくし好しも」〈万九九二〉
②昔なじみの、なつかしい里。㋺かつて住んだ所。長年暮した家。度度来た土地。「人はいさ心も知らず―は花ぞ昔の香ににほひける」〈古今四二〉
はな【花】
(※詞書にあるとおり、梅の花のこと。)
か【香】
(※かおり)
作者:紀貫之(きのつらゆき)について
貞観(じょうがん)10年(868)~天慶(てんぎょう)8年(945)。生まれた年を貞観14年(872)とする説もあります。
古今和歌集(こきんわかしゅう)
延喜(えんぎ)5年(905)、醍醐(だいご)天皇の勅命(ちょくめい)により最初の勅撰和歌集、『古今和歌集』がつくられたときには、いとこの紀友則(きのとものり)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)とともに撰者の一人として編纂にたずさわり、序文である「仮名序(かなじょ)」を書きました(漢文で書かれた「真名序(まなじょ)」に対して仮名文で書かれた序文を「仮名序」と言う)。『古今和歌集』に入った貫之の和歌は100首以上で、全体の約1100首の中で最も多いです。
仮名序には、すぐれた歌人として6人の名前があげられています。これを六歌仙(ろっかせん)と言います。六歌仙は、在原業平(ありわらのなりひら)、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、喜撰法師(きせんほうし)、大友黒主(おおとものくろぬし)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、小野小町(おののこまち)、以上の6人です。
土佐日記(とさにっき)
貫之は『土佐日記(とさにっき)』の作者としても知られています。(日記文学の覚え方は「とかげいずむらさらさぬき」です。)
貫之は土佐の国(いまの高知県)の国司(こくし/くにのつかさ)(地方を治めるために政府から派遣された地方官。いまの県知事のようなもの)でした。承平(じょうへい)4年(934)の12月、国府(こくふ/こう)(国司の役所)を出発し、翌935年2月に京都に帰るまでのことを書いた日記です。
冒頭の「男もすなる日記(にき)といふ(う)ものを、女もしてみむ(ん)とてするなり」の一文は有名です。(助動詞「なり」の解説は「古典の助動詞の活用表の覚え方」をご参照ください。)
これを訳すと、「男も書くとかいう日記というものを、女であるわたしもしてみようと思って書くのだ」となりますが、貫之は女性ではなく、まぎれもなく男性です。
当時、「男の日記」とは一般的に、漢文で書かれた官僚(かんりょう)(役人)の記録のことを言います。ですから、日記の筆者を女性とするのは作者の作り話で、言わば「おふざけ」のようなものだと考えてください。
三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)
貫之は三十六歌仙の一人にかぞえられます。
三十六歌仙とは、平安時代中期に藤原公任(ふじわらのきんとう)(966~1041年)がつくった『三十六人集』(『三十六人撰』とも言う)にもとづく36人のすぐれた歌人のことです。
百人一首の現代語訳と文法解説はこちらで確認
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