このたびはぬさも取りあへずたむけやま紅葉の錦神のまにまに
小倉百人一首から、菅家(菅原道真)の和歌に現代語訳と品詞分解をつけて、古文単語の意味や、助詞および助動詞の文法知識について整理しました。
また、くずし字・変体仮名で書かれた江戸時代の本の画像も載せております。
ふだん我々が使っている字の形になおした(翻刻と言う)ものと、ひらがなのもとになった漢字(字母)も紹介しておりますので、ぜひ見比べてみてください。
目次
原文
画像転載元国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541162
翻刻(ほんこく)(普段使っている字の形になおす)
釈文(しゃくもん)(わかりやすい表記)
菅家
このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
字母(じぼ)(ひらがなのもとになった漢字)
現代語訳(歌意)・文法解説
※宇多上皇(うだじょうこう)が奈良におでかけになったときに、旅の安全をいのって幣(ぬさ)をたむける山で、よんだ歌。
今回の旅は幣の用意もできませんでした。手向山(たむけやま)の色とりどりの紅葉(もみじ)の葉を幣(ぬさ)として差しあげますので、神のお心にしたがってお受け取りください。(幣を用意できなかったのは、上皇のおでかけが突然で、いそがしかったため、という説によりました。)
※打消(うちけし)の助動詞「ず」は未然形接続です。未然形接続の助動詞は、「る・らる・す・さす・しむ・ず・じ・む・むず・まし・まほし・ふ・ゆ」の13種類です。助動詞の解説は「古典の助動詞の活用表の覚え方」にまとめました。
※天皇・上皇などがでかけることを、行幸(ぎょうこう/みゆき)と言います。(例:今ひとたびのみゆき待たなむ)
道真の和歌を前提にして素性法師がよんだ和歌
※道真(みちざね)の和歌を受ける形で、素性法師(そせいほうし)がよんだ和歌です。
たむけにはつゞりの袖もきるべきにもみぢに飽ける神や返さむ
訳)たむけをするために私の粗末な衣のそでを幣(ぬさ)として切って差しあげるべきでしょうが、道真がささげた紅葉の幣に満足していらっしゃる神が、その紅葉の幣をお返しなさるでしょうか、いや、お返しなさらないでしょう。
※『古今和歌集』の420番目の歌が道真の和歌で、その次の421番目が素性法師の和歌です。
※係助詞と係り結びについては「古典の助詞の覚え方」をご覧ください。
※存続・完了の助動詞「り」はサ変動詞の未然形と四段動詞の已然形に接続します。サ変の未然形も、四段の已然形も、どちらも「e(エ)」の母音で終わります。したがって、母音「e(エ)」のうしろに「ら・り・る・れ」がつづいたら、まずは存続・完了の助動詞をうたがうようにしましょう。
「飽ける」は「満足している」というように、存続の意味で訳します。
※動詞の活用(形の変化)については「古典の動詞の活用表の覚え方」でご確認ください。
※助動詞については「古典の助動詞の活用表の覚え方」にまとめてあります。
※「ゝ」や「ゞ」の文字は、同じ字をくり返すときに使います。漢字の場合は「々」、カタカナの場合は「ヽ」を使います。キーボードで入力するときは、「くりかえし」あるいは「おなじ」と打って変換すると出てくるはずです。ちなみに「〳〵」もくり返し記号で、たて書きで並べると「く」の字ようになります。これは2文字つづけてくり返すときに使う記号で、たとえば「つれづれ」を「つれ〴〵」と表すときに使います。横書きの場合は使えないので、スラッシュをかさねて、「\/」のようにして代用することもあります。
語釈(言葉の意味)
※特記のないかぎり『岩波 古語辞典 補訂版』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎 編集、岩波書店、1990年)による。
詞書(ことばがき)
※詞書とは、和歌がよまれた事情を説明する短い文のことです。
朱雀院(すざくいん)の、奈良におはしましたりける時に、手向山(たむけやま)にて、よみける(※宇多上皇が奈良におでかけになったときに、旅の安全をいのって幣をたむける山で、よんだ歌。)
「御幸(みゆき)の御供なれば、心慌ただしくて、幣も取りあへぬなり」(両度聞書(りょうどききがく))。次の歌(※道真の和歌が古今和歌集の420番目の歌。次の421番目の素性法師の和歌のこと)とともに昌泰(しょうたい)元年(898)十月の宇多上皇の吉野宮滝への行幸(日本紀略)の時の歌か。扶桑略記(ふそうりゃっき)によれば、是貞(これさだ)親王を除くと、大納言右大将の菅原道真が筆頭で供奉(ぐぶ)(※天皇のお供をすること)の責任者。勅命(ちょくめい)(※天皇・上皇の命令)による諸臣の献歌・献句のことも記されている。
※詞書と注の引用は『新日本古典文学大系 古今和歌集』小島憲之・新井栄蔵、岩波書店、1989年、139ページ)によります。
このたびは
(※「この旅」と「この度」を掛ける。)
ぬさ【幣】
①神に祈る時のささげ物。また、罪けがれを祓(はら)うためのささげ物。主として木綿〈ゆふ〉・麻を使ったが、後には布・帛(はく)・紙などを使うこともあった。「佐保過ぎて奈良の手向(たむけ)に置く―は妹を目離(か)れずあひ見しめとそ」〈万三〇〇〉。「―とは、神に奉る絹なり」〈能因歌枕〉
○幣
神への供えもの、特に五色の布。(『新日本古典文学大系 古今和歌集』100ページより)
たむけやま【手向山】
旅の道中の安全を祈って手向の神を祀った所で、諸所にあり、本来固有名詞ではないが、その中でも、奈良山・逢坂山などが有名であった。『八雲御抄』が「大和。仍チ近江ノ由範兼抄ニ見ユ」とするのもそのせいである。紅葉や花が風に散るさまを幣(ぬさ)を手向けることに見立てた表現が多く、「このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに」(古今集・羇旅・道真、百人一首)や「吹く風を神やいさめむ手向山折ればかつ散る花の錦に」(郁芳三品集)などとよまれた。そのほか「白雪」を「幣」や「白木綿(ゆふ)」に見立てた表現もあった。
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
○手向山
「手向け」する山の意の普通名詞。旅の安全を祈って幣を手向ける山。(『新日本古典文学大系 古今和歌集』139ページより)
にしき【錦】
①絹織物の一。金糸銀糸色糸を使って織り成した、華麗な厚手の織物。「―綾の中につつめる斎児(いつきご)も」〈万一八〇七〉
②模様の華麗なものをたとえていう語。「みわたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の―なりける」〈古今五六〉
神のまにまに
●まにまに【随】
「……にそのまま従って」「……につれて」の意。「このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山(たむけやま)もみぢの錦神のまにまに」(古今集・羇旅・道真、百人一首)「君がゆく越の白山しらねども雪のまにまに跡をたづねむ」(古今集・離別・兼輔)のように、「……にそのまま従って……」の意に解されるのである。
『歌枕 歌ことば辞典』片桐洋一、笠間書院、1999年
●まにま【随・随意】
〘副〙従って。まま。まにまに。「死にも生きも君が―と」〈万一七八五〉
●まにまに【随に】
〘副〙
①思う通りに。「天へ行かば、汝(な)が―」〈万八〇〇〉。「立つとも坐(う)とも君が―」〈万一九一二〉
②…に従って。…につれて。「漕ぎ行く―、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ」〈土佐一月九日〉
作者:菅家(かんけ) 菅原道真(すがわらのみちざね)について
宇多天皇の重臣
承和(じょうわ)12年(845)~延喜(えんぎ)3年(903)。参議(さんぎ)是善(これよし)の三男。
学者の家系に生まれ、おさないころから漢学にすぐれ、元慶(がんぎょう)元年(877)に文章博士(もんじょうはかせ)になりました。
宇多天皇(うだてんのう)(光孝天皇の皇子)に信頼され、従二位(じゅにい)右大臣(うだいじん)にのぼりました。
遣唐使廃止
遣唐使(けんとうし)は中国大陸の文化や情勢を学ぶために派遣されましたが、中国(当時は唐)が戦乱によりおとろえたため、寛平(かんぴょう)6年(894)、道真の意見により廃止されました。
大宰府(だざいふ)に左遷(させん)
右大臣の菅原道真は、左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら/しへい)とともに朝廷の中心的立場にいましたが、道真をこころよく思わない人々に「道真は娘婿(むすめむこ)の斉世(ときよ)親王を天皇に即位させようとたくらんでいる」と讒言(ざんげん)(事実とちがったことを言って人をおとしいれること)され、昌泰(しょうたい)4年(901)、大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷されました。また、道真の4人の息子たちも各地に左遷されました。
※左遷当時は醍醐天皇。宇多天皇は譲位して上皇(じょうこう)になっていました。
大宰府(だざいふ)
大宰府は現在の福岡県にありました。長官が大宰帥(だざいのそち)です。
また、権官(ごんかん)と言って、定員外に人を増やすときは「権(ごん)」の字をつけて呼びます。大宰権帥(だざいのごんのそち)は大宰帥の権官ということです。
道真は京にもどることなく、延喜3年(903)、この地で没しました。
※紫式部(むらさきしきぶ)の娘である大弐三位(だいにのさんみ)の呼称は、夫の高階成章(たかしなのなりあきら)の官職が大宰大弐だったことに由来します。
北野天満宮(北野天神)
道真の死後、京では道真の左遷に関与した時平や、その周辺の人々があいついで亡くなり、清涼殿(せいりょうでん)(天皇の住居)には雷が落ちます。
これを人々は、怨霊になった道真のたたりだと恐れ、鎮魂のために道真を北野天満宮(きたのてんまんぐう)(北野天神)に祭りました。
さらに、道真には朝廷から太政大臣の位が贈られ、左遷された道真の息子たちは京に呼びもどされました。
『更級日記』(さらしなにっき)
平安後期の日記文学、『更級日記』を書いた菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は道真の子孫です。
また、孝標女の母方の伯母には、『蜻蛉日記』(かげろうにっき)を書いた藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)がいます。
孝標女は、後朱雀天皇(ごすざくてんのう)の皇女の祐子内親王(ゆうしないしんのう)に仕えました。同じく祐子内親王に出仕(しゅっし)した歌人に祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)がいます。
日記文学の覚え方
日記文学は「とかげいずむらさらさぬき」と覚えます。くわしくは「文学史のまとめ」のページをご覧ください。
●参考文献
・『新詳日本史』(2009年、浜島書店)
・『土屋の古文常識222』(土屋博映、1988年、代々木ライブラリー)
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嵐吹く三室の山の紅葉葉は竜田の川の錦なりけり(能因法師)