体言止めの使い方や意味を、例文をまじえながら解説します。そもそも体言とは何か、というところからご説明しますので、文法が苦手な方も大丈夫です。また、「体言止めに句点は必要?」、「体言止めの反対は?」などの疑問にもお答えします。
目次
体言止めの意味:文が名詞で終わる
物事や人の名前のことを名詞(めいし)と言いますが、体言(たいげん)と役割は同じなので、「体言 = 名詞」と考えてしまって大丈夫です。
そして、体言(名詞)で文がしめくくられることを体言止めと言います。体言で文をいったん止めて、切り上げるので、体言止めです。
この記事のタイトルも、「意味や効果を解説する」ではなく、「意味や効果を解説」と体言(名詞)でしめくくっているので、体言止めですね。
体言止めの効果:新聞でよく見る技法
体言止めは新聞で見かけることが多いです。下に示したのは実際の新聞の見出しの例です。
大谷 6番DHで復帰
理事長が不正合格決定
文科前局長、申請書指南
新聞の場合は、紙面に限りがあるので文字数を節約しなければなりません。上の例では、「大谷が6番DHで復帰した」と書くよりも、「大谷 6番DHで復帰」と書いたほうが、文字数を少なくすることができます。このように、新聞の見出しでは、「て・に・を・は」を省略したり、語尾を省いたりすることがよくあります。
新聞では同じ理由から、見出しだけでなく記事本文にも体言止めが使われます。下の例は横綱の稀勢の里について書かれた記事の一部です(※読売新聞・2018年7月6日・朝刊16面)。
新横綱で優勝した昨年春場所で左胸付近の筋肉を負傷。この影響で翌夏場所以降、一度も千秋楽までの15日間を全うできていない。8場所連続休場は、年6場所制となった1958年以降の横綱では、貴乃花の7場所を上回る最長記録。(後略)
「筋肉を負傷」「7場所を上回る最長記録」などの形で文がしめくくられているので、これらも体言止めです。この場合は、単に文字数を減らすだけではなく、「負傷した」「最長記録である」という語尾を省略することで、文章に変化をつけてリズムをもたらすという効果もあります。
体言止めは句点「。」でしめくくる
文中で体言止めを使う場合、体言止めの後ろに句点「。」を付けて、文をしめくくるのが基本です。句点「。」を付けないと、どこで文が終わっているのか分かりませんよね。
ああ、しかし、自分は、大きな歓楽(よろこび)も、また、大きな悲哀(かなしみ)もない無名の漫画家。(※引用 太宰治『人間失格』、新潮文庫版・98ページ)
戦後、『斜陽』などで流行作家となるが、『人間失格』を残し山崎富栄と玉川上水で入水自殺。(※引用 太宰治『人間失格』、新潮文庫版・カバーのそでの著者紹介文より)
以上のように、体言止めは句点といっしょに使います。
ただし、箇条書きには「。」を付けない場合もあります。
退位礼正殿の儀
- 天皇、皇后両陛下が皇居・正殿松の間にお出まし
- 侍従が剣、勾玉、国璽、御璽を安置
- 首相が国民代表の辞
- 天皇陛下がお言葉
- 両陛下がご退出
※引用 時事ドットコム「【図解・社会】退位・即位儀式の流れ(2019年3月)」(2019年3月19日)より(https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_koushitsu20190319j-13-w450)。
体言止めの反対とは?
体言止めで終わる文の反対は、用言で終わる文と言えます。ただし、「用言止め」といった言葉が使われるわけではありませんので、体言止めには対義語に当たるような言葉はありません。
ちなみに、用言とは、述語になる言葉のことで、動詞・形容詞・形容動詞がこれに含まれます。用言で終わる文のほうが、体言止めの文よりも使われることが多く、一般的です。
体言止めの例文と注意点
フォーマルな場面では基本的に使用しない
上記のような理由から新聞には多用される体言止めですが、入学試験の出願書や小論文のテスト、会社で作成する文書など、あらたまった場面では使用を控えるのが一般的です。
使っても良いのは、感想文や作文など、くだけた場面です。
使いすぎると単調になる
体言止めに限ったことではありませんが、同じことをくり返すと単調になってしまいます。例文を見てみましょう。
乗車したのは朝7時の新幹線だった。終着駅は東京駅だった。目の前にそびえていたのは見たこともない大きなビルだった。
上の例の場合、「だった」が多用されていて単調です。ためしにすべて省略して体言止めにしてみると、
乗車したのは朝7時の新幹線。終着駅は東京駅。目の前にそびえていたのは見たこともない大きなビル。
となって、これまた単調です。文章として良くないので、真ん中だけ体言止めにしてみます。
乗車したのは朝7時の新幹線だった。終着駅は東京駅。目の前にそびえていたのは見たこともない大きなビルだった。
このようにすると、「だった」をくり返した文章と比べて、文章に適度な変化をつけることができてリズムも生まれます。単調な文を続けない、ということが大切で、それは体言止めを使う時も同じなのです。
ただし、何度もくり返しますが、基本的に体言止めは普通の文章に使うものではありません。上の例も、「朝7時の新幹線に乗車し、終着駅である東京駅で下車して改札を出てみると、そこには見たこともない大きなビルが目の前にそびえていた」とでも書けば簡単ですしわかりやすいです。
体言止めは和歌で使われる技法
新聞のように一般的な文書に使用されることもありますが、そもそも体言止めは和歌で使われる技法のひとつです。体言止めの、だれかに呼びかけたり言いきったりするような形が、読み手や聞き手の余情(よじょう)をさそう、という効果があります。
そもそも和歌とは何か?
そもそも和歌とは?短歌との違いは?などと疑問に感じている方に向けて、和歌とは何かをご説明します。和歌とは、漢詩に対して言う文芸のことで、さまざまな形式があります。現在では、和歌と言えば「5・7・5・7・7、合計31音」の短歌が一般的ですが、そもそも短歌は和歌のさまざまな形式の一種です。
短歌というのはたしかに和歌の形式の一種なのですが、一般的には近代以降の和歌のことを指します。これは俳句という言葉も同じで、明治時代になってから正岡子規(まさおかしき)が革新運動を起こして広めた言葉です。
体言止めが使われている和歌
つぎに、体言止めが使われている和歌を見てみましょう。
百人一首の体言止め
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)
(これやこの ゆくもかえるも わかれては しるもしらぬも おうさかのせき)
現代語訳:これがあの、東国へ行く人も都へ帰る人もここで別れ、また、知っている人も知らない人もここで会うという逢坂の関なのだ。
大江山生野の道の遠ければまだ文も見ず天橋立(小式部内侍)
(おおえやま いくののみちの とおければ まだふみもみず あまのはしだて)
現代語訳:大江山を越え、生野を通って行く道のりが遠いので、母の和泉式部がいる天橋立へ行ったことはまだありませんし、母からの手紙をまだ見ておりません。
上の二つの和歌は「逢坂の関」「天橋立」のように、どちらも名詞でしめくくられている体言止めの歌です。百人一首には上の二つの和歌以外にも体言止めの歌があるので、興味のある方はご覧ください。
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三夕の歌(新古今和歌集)の体言止め
体言止めの和歌の中で、特に有名なのが「三夕の歌」(さんせきのうた)です。これは秋の夕暮れをよんだ3首の和歌のことで、すべて「秋の夕暮れ」という体言(名詞)でしめくくられています。
寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ(361・寂蓮法師)
(さびしさは そのいろとしも なかりけり まきたつやまの あきのゆうぐれ)
現代語訳:このさびしさはどこから来るというものでもないのだ。真木(まき)の生えている山の秋の夕暮れよ。
心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ(362・西行法師)
(こころなき みにもあわれは しられけり しぎたつさわの あきのゆうぐれ)
現代語訳:あわれなど理解するすべもない私にも、今はそれがよくわかるのだ。鴫(しぎ)が飛び立つ沢の秋の夕暮れよ。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(363・藤原定家)
(みわたせば はなももみじも なかりけり うらのとまやの あきのゆうぐれ)
現代語訳:見わたすと、花も紅葉もここにはない。海辺の仮小屋に訪れる秋の夕暮れよ。
上の3つの和歌はすべて3句切れなので、3句目でいったん歌の意味が切れます。そして、体言止めとして、「秋の夕暮れ」で和歌がしめくくられているので、和歌の雰囲気に余情が添えられます。体言止めは、本歌取りとならんで、新古今集の時代に代表される和歌の表現技法の一つです。
古文の基本はこちらの記事で確認
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