2018年3月歌舞伎座公演の感想です。
3月の歌舞伎座公演、夜の部後半は、新派の演目、「滝の白糸」でした。「滝の白糸」は何度も映画化されている有名な作品のようですが、私は今回、歌舞伎座で見るのが初めてでした。玉三郎さんの演出ですし、いくらか期待していたのですが、正直がっかりしてしまいました。夜の部前半の「於染久松」と「神田祭」が非常に素晴らしかっただけに残念です。
私が見たいのは歌舞伎であって、新派の演劇ではない、というのもたしかにありますが、それだけではありません。
原作のほうが良い
観劇にあたって、「滝の白糸」の原作である泉鏡花の『義血侠血』をあらかじめ読みました。この作品の最大の魅力は、滝の白糸こと、水島友が見せる人間離れした豪気な一面だと思っていますし、それは作品冒頭の場面で強調されています。乗合馬車の御者に金を惜しみなく与え、馬車がいくら揺れても微動だにしない。息をのむほど美しいが、どこか気味の悪い女性。まるで妖怪です。
しかし、その妖気があるからこそ、欣也に金を貢ぐ荒唐無稽な展開も、凄惨な殺人の場面も際立つのです。水島友を普通の恋する女性として描いてしまったら、原作のもつ魅力はなくなってしまいます。
特に今回の舞台を見ていて思ったのは、殺人の動機があいまいになっていることでした。金を奪われて途方に暮れていた滝の白糸が立ち寄った家で殺人を犯す場面ですが、非常にあっさりしていました。あれでは、なぜ殺す必要があったのかわからない。原作では次の通りです。(※引用は青空文庫から。最終閲覧2018年4月3日。)
「偸児(どろぼう)!」と男の声は号(さけ)びぬ。
白糸の耳には百雷の一時に落ちたるごとく轟(とどろ)けり。精神錯乱したるその瞬息に、懐なりし出刃は渠(かれ)の右手(めて)に閃(ひらめ)きて、縁に立てる男の胸をば、柄(つか)も透(とお)れと貫きたり。
戸を犇(ひしめ)かして、男は打ち僵(たお)れぬ。朱(あけ)に染みたるわが手を見つつ、重傷(いたで)に唸(うめ)く声を聞ける白糸は、戸口に立ち竦(すく)みて、わなわなと顫(ふる)いぬ。
渠はもとより一点の害心だにあらざりしなり。われはそもそもいかにしてかかる不敵の振舞をなせしかを疑いぬ。見れば、わが手は確かに出刃を握れり。その出刃は確かに男の胸を刺しけるなり。胸を刺せしによりて、男は殪(たお)れたるなり。されば人を殺せしはわれなり、わが手なりと思いぬ。されども白糸はわが心に、わが手に、人を殺せしを覚えざりしなり。渠は夢かと疑えり。
「全く殺したのだ。こりゃ、まあ大変なことをした! どういう気で私はこんなことをしたろう?」
我を失って人を殺めるのは原作も舞台も同じですが、原作ではもう一人手に掛けます。
「静かに!」と白糸は身を露わして、庖丁を衝(つ)き付けたり。
内儀は賊の姿を見るより、ペったりと膝を折り敷き、その場に打ち俯(ふ)して、がたがたと慄(ふる)いぬ。白糸の度胸はすでに十分定まりたり。
「おい、内君(おかみ)さん、金を出しな。これさ、金を出せというのに」
俯して答(いら)えなき内儀の項(うなじ)を、出刃にてぺたぺたと拍(たた)けり。内儀は魂魄(たましい)も身に添わず、
「は、は、はい、はい、は、はい」
「さあ、早くしておくれ。たんとは要らないんだ。百円あればいい」
白糸は一人殺した時点で持ち前の豪気な本性を取りもどします。白糸を普通の女性として描くと、この場面がぼやけてしまいます。凄惨な場面だから見たくない人もいるかもしれませんが、白糸の本性を端的に表す物語のハイライトだと思うので、この場面はじっくり描いてほしかったです。二番煎じになってしまうかもしれませんが、「女殺油地獄」のように、凄惨な殺しの場面でもコミカルな要素を取り入れて、歌舞伎特有の様式美を演出することも可能だと思います。
原作では「恋」だの「ほれた」だの、そのような浮ついた言葉はあまり使われていないのに、舞台では多用されていて、全体的に妙に湿っぽくなってしまったのが残念です。原作通り、婉然としてからりとした滝の白糸が見たかった。
天守物語はよかった
今回の「滝の白糸」に期待していた理由は、以前歌舞伎座で見た、同じく泉鏡花原作の「天守物語」が非常によかったからです。いずれも新派の演劇なのに「滝の白糸」はつまらなくて、どこがちがうのかな、と思ったのですが、飽きさせないセリフ回しにあるのではないかと思います。私が歌舞伎に魅力を感じる一つが、セリフ回しの音楽性です。三味線の伴奏に乗って役者が語り、見得を切ってツケが入る。大向こうのタイミングも揃えば最高です。現代劇の役者が歌舞伎のセリフをしゃべっても「何かちがうな」と違和感を覚えますから、歌舞伎の重要な要素の一つだと思っています。
「滝の白糸」がつまらなかったのは、この音楽性が感じられなかったということもあります。セリフにも、物語の展開にも起伏がない。だから飽きる。いっぽう、「天守物語」には、思わず引き込まれるようなセリフの美しさがありました。だから、「天守物語」ならもう一度見たいと思えるのです。
しかし基本的には、新派の演劇ではなくて歌舞伎が見たいということですが。