川端康成『伊豆の踊子』の簡単なあらすじと読書感想文の見本です。感想文は1618字ほど書きました。高校生や中学生の方は、この感想文の例を参考にして書き方を工夫してみてください。
『伊豆の踊子』の簡単なあらすじ
『伊豆の踊子』のあらすじは次の通りです。
以上のあらすじをふまえて書きます。
『伊豆の踊子』感想文の例
期待が裏切られることはしばしばである。しかし、失敗してはじめてわかることもあるはずだ。
二十歳の高等学校生の「私」は伊豆の旅のとちゅうで、旅芸人の一行に出会い、ひとりの踊り子にひかれ、ともに旅をつづけた。やがて、彼らとわかれると、どれほど親切にされてもすなおに受け入れられるうつくしい心をもっていることに気づき涙を流すのだった。
物語ぜんたいをとおして四十女(踊り子の兄の義理の母)が「私」のじゃまをする。四十女は「私」と近づきになりたくなさそうなようすをつらぬいている。いっしょに旅をつづけることをことわることはしないが、ついてきたければついてきてもよいといった愛想のないようすであり、おなじ宿に泊まることもさけているようである。踊り子やほかのむすめたちが「私」のところへあそびに行こうとするのをやめさせようとしたり、踊り子が活動写真を見にいくことをゆるさなかったりする。「私」の望みをさまたげる障壁である。「私」にとってしりぞけなければならない障害である。この女が踊り子を守っているかぎり、「私」は踊り子との距離をちぢめることはできない。
なによりものたりなく感じられるのは「私」の優柔不断な態度である。踊り子を自分の部屋に泊まらせるなどと大きなことを考えながら、かんたんにあきらめてしまう。旅芸人の一行が出立をおくらせたらどうかという提案をことわり、学校がはじまるし金がないからという理由でかんたんに旅をきりあげて東京にかえってしまう。踊り子に恋しているのなら、彼女を東京につれていくくらいの強引さとあらあらしさが求められる。しかし、旅の一行と親しくなってしまったから、そのようなあらあらしい行動に出ることは難しいだろう。「私」は旅芸人たちから「いい人」とみなされたから、さいごまで「いい人」でありつづける。
「私」は東京へ帰る船のなかで、「私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持だった」と涙を流す。他者の親切をすなおに受け取るということは、個人の努力がときに結実しないことを認めることである。反対に、親切をすなおに受け取ることができないということは、自分の力を過信し、個人の努力しだいで欲しいものを手に入れられると考えることである。そして、他者を頼り他者の助けを借りることを否定する態度である。そのような態度にもとづけば、苦境にあえぐ人々を、努力しない人、あるいは努力の足りない人とみなし、さげすむことにつながりかねない。「私」は踊り子を手に入れようと考え、旅の一行に近づいた。旅芸人が身分の低い存在であることは文中にも描かれているから、そのように取るに足らない踊り子ならば、かんたんになびくかもしれないという淡い期待を抱いていたかもしれない。しかし、紆余曲折を経てその望みはうちくだかれたのである。思いのほか保護者の警戒感が強い。学校がはじまる時間もせまってきた。金もない。彼はみずから思い描いていた予想や計画が失敗に終わったことを知った。彼は高慢で、見通しがあまかったのだ。意志をつらぬく強い心を持ち合わせていないにもかかわらず、みずから勝手気ままな期待感を増長させて、けっきょく期待を裏切られ、そして涙を流したということだろう。
帰りの船で、ばあさんを送りとどける頼みを受けいれたのは、不幸な立場にいる人の苦しみをよく理解できたからだろう。「私」は「いい人」だから申し出をことわることはなかろうが、挫折を経験したからこそ、そして失敗から時間が経っていないからこそ、人助けをしぜんにする心もちだったにちがいない。じっさいに挫折を経験しなければ、苦境にいる人の気持ちを理解するのは難しい。自分自身が苦い経験をあじわうことで、他者の苦しみをより身近に感じることができる。他者に思いやりのまなざしをもつことで、やみくもに他者に敵対することなく、他者の存在を受けいれる謙虚な気もちを持つことができる。
(1618字)
まとめ
「孤児根性」や「大島訪問の約束」など、作品中には正直よくわからない点も多いのですが、けっきょく踊り子を手に入れることができなかったので、主人公が挫折したということは、たしかに言えそうです。期待や願望が裏切られることはめずらしいことではありませんから、自分の失敗談をまじえて書いてみてもよいと思います。
●川端康成『雪国』あらすじと読書感想文