平安時代中期に菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)によって書かれた『更級日記』(さらしなにっき)の個人的な勉強ノートです。
原文には、各章段に見出しは付けられていませんが、「あづまぢの道の果てよりも」で始まる冒頭部分は、活字化された際に一般の読者に分かりやすいように「あこがれ」「門出」「上洛の旅」などと見出しが付けられています。
今回は『更級日記』の冒頭を翻刻し、歴史的仮名遣いで表記したうえ、品詞分解・現代語訳・語釈を付しました。学習の参考にしていただければ幸いです。
●使用テキスト
『御物更級日記 藤原定家筆』(笠間影印叢刊刊行会・2015年)
門出
p.5 東路の道の果てよりも
「あづま路の道のはて」は常陸国(今の茨城県の大部分)。この冒頭は「あづま路の道のはてなる常陸帯のかごとばかりもあひ見てしがな」(古今六帖・五 紀友則)を引歌とする。「常陸帯」は男女の縁を決める占いの帯。第三句までは「かこ」(帯の止金)で、「かこ」は「かごと」(口実、言い訳)に展開する。一首は「ほんの申しわけ程度でもよいから、あの人に逢いたいものだ」の意。
作者が少女期を過ごしたのは父の任国上総(今の千葉県の一部)である。常陸よりさらに奥地としたのは、自己をおぼろに登場させる一種の虚構、文飾であろう。(下略)【新全集】
▶なほ奥つかたに生ひ出でたる人
常陸の国よりももっと奥の上総の国で成長した人(私)。作者が数え年十歳から十三歳まで過ごしたことをいう。上総(千葉県の一部)を常陸(茨城県の大部分)よりも奥としたことについては、(1)京都からの道順が常陸よりも遠いため、(2)常陸で成人した浮舟を意識した虚構、(3)東国の辺境であることを際立たせる文飾、などの諸説がある。【新大系】
奥つかたに生ひ出でたる人、いかばかり
かはあやしかりけむを、いかに思ひ
はじめけることにか、世の中に
物語と言ふもののあんなるを、「いかで
見ばや」と思ひつつ、つれづれなる昼間、
宵居などに、姉、継母など
やうの人々の、その物語、かの物語、
光源氏のあるやうなど、
くつかたにおいゝてたる人いか許
かはあやしかりけむをいかにおも
ひはしめける事にか世中に物
かたりといふ物のあんなるをいかて
みはやとおもひつゝつれ〳〵なるひる
まよひゐなとにあねまゝはゝなと
やうの人々のその物かたりかのものか
たりひかる源氏のあるやうなと
p.6 ところどころ語るを聞くに
願主と同じ背丈の意とも、五尺の意ともいう。【新大系】
しさまされど、我が思ふままに、そら
にいかでか覚え語らむ。いみじく
心もとなきままに、等身に薬師
仏をつくりて、手洗ひ
などして人まにみそかに入りつつ
「京にとく上げ給ひて、物語の多
く候ふなる、あるかぎり見せ給へ」と、身を
捨てて額をつき、祈り申すほどに、
しさまされとわかおもふまゝにそら
にいかてかおほえかたらむいみしく
心もとなきまゝにとうしんにや
くしほとけをつくりてゝあらひ
なとして人まにみそかにいりつゝ
京にとくあけ給て物かたりのおほ
く候なるあるかきり見せ給へと身を
すてゝぬかをつきいのり申すほとに
p.7 十三になる年
出発に先立ち日の吉凶、方位などを考慮、ひとまず居を移すのが当時の習慣。仮の出発。【新全集】
▶いまたち
地名。千葉県市原市馬立の古名というが不明。「今発ち」の掛詞とみる説、普通名詞「今館」(新造の館)とする説などがある。【新全集】
▶あらはにこほちちらして
「こほつ」はこわすの意だが、ここは御簾・几帳・帳台などの調度類を取りはずしたり、取りかたづけたりすること。「ちらす」が「書きちらす」「食ひちらす」など複合語になるとき、乱雑に…する、無造作に…するの意になることもある。ここも、乱暴に取りかたづけての意だろう。【新大系】
三日、門出して、いまたちと言ふ所に
移る。年ごろ、遊び慣れつる所を
あらはにこほちちらして、立ち騒ぎて、
日の入り際のいとすごくきり
わたりたるに、車に乗るとて、うち
見やりたれば、人まには参りつつ、
額をつきし薬師仏の立ち給へる
を見捨て奉る、かなしくて、人
知れず、うち泣かれぬ。門出したる
三日とてかとてしていまたちといふ所にう
つる年ごろあそひなれつるところを
あらはにこほちゝらしてたちさは
きて日のいりきはのいとすこくきり
わたりたるにくるまにのるとてうち
見やりたれは人まにはまいりつゝ
ぬかをつきしやくし仏のたち給へる
を見すてたてまつるかなしくてひと
しれすうちなかれぬかとてしたる
p.8 門出したる所に
風景・建物・月・花・音楽等の明るく、晴々とした趣をいう。【新大系】
▶境
上総と下総の国境。【新全集】
の茅屋の、蔀などもなし。簾
かけ、幕など引きたり。南ははるかに
野のかた、見やらる。東西は
海、近くて、いと面白し。夕霧、
立ち渡りて、いみじうをかしけれ
ば、朝寝などもせず、かたがた見つつ、
ここを発ちなむこともあはれに
かなしきに、同じ月の十五日、雨かきくらし
降るに、境を出でて
のかやゝのしとみなともなしすたれ
かけまくなとひきたり南はゝる
かに野の方見やらるひむかし西は
うみちかくていとおもしろしゆ
ふきり立渡ていみしうおかしけ
れはあさいなともせすかた〳〵見つゝ
こゝをたちなむこともあはれにかな
しきにおなし月の十五日あめかき
くらしけふるにさかひをいてゝしも
p.9 しもつさの国、いかだと言ふ所
しもつさ【下総】《シモツフサの転》下総(しもふさ)【古・岩】
しもふさ【下総】旧国名の一。東海道十五国の一で、今の千葉県北部と茨城県南部。(中略)▽古くはシモツフサ。【古・岩】
底本「しもつけ」。「しもつさ」の誤写。【新大系】
▶いかだ
不明。「いけだ(池田)」の訛伝ないし誤写か。池田は『和名抄』巻六に見える下総国千葉郡七郷の一つの古名。他に「筏」とみて、下文「庵なども浮きぬばかりに」と照応させた作者の意識的な言語遊戯とみる考えもある。【新全集】
▶まののてう
底本「まのしてら」は、「し」を「ゝ」、「ら」を「う」の誤写とみなして、「まの(地名)のてう(長・長者)」と解する通説に従いたい。【新大系】
底本は「まのしてら」とあるが意味不明。通説に従って「まのゝてう」と改め、「まの」(地名)の「てう」(長)と解しておく。「まの」は千葉市浜野町あたりかという。「てう」は長者、土豪をいう。【新全集】
ぬ。庵なども浮きぬばかりに、雨、
降りなどすれば、おそろしくて寝も
寝られず。野中に丘だちたる所に、
ただ、木ぞ三つ立てる。その日は雨
に濡れたる物ども干し、国にたち
遅れたる人々、待つとて、そこに日を
暮らしつ。十七日のつとめて、発つ。昔、
しもつさの国に、まののてうと言ふ
人、住みけり。疋布を千むら、万
りぬいほなともうきぬはかりに雨
ふりなとすれはおそろしくていも
ねられす野中にをかたちたる所に
たゝ木そみつたてるその日は雨
にぬれたる物ともほしくにゝたちを
くれたるひと〳〵まつとてそこに日を
くらしつ十七日のつとめてたつ昔
しもつさのくにゝまのしてらといふ
人すみけりひきぬのを千むら万
p.10 織らせ、曝させけるが家の跡
朽ちもしないこの川柱が残らなかったならば、ここが昔の長者の屋敷跡だということを、どうして知ることができようか。
その夜は、「くろとの浜」というところに泊まった。
千葉県木更津市小櫃川の河口付近(上総)を黒戸浜という。とすれば再び上総に逆行したことになる。作者の記憶違いであろうか。これに対して、千葉市中央区登戸より稲毛区に至る海岸「黒砂」の古名とする説、津田沼・幕張一帯の称とみる説もあるが、にわかに決めがたい。なお、以下の紀行中の地名にもしばしば不審な点があり、作者の聞き違い、記憶違いと思われる例がまま散見する。【新全集】
とて、深き川を舟にて渡る。昔
の門の柱の、まだ残りたる
とて、大きなる柱、川の中に
四つ立てり。人々、歌、詠むを聞きて、
心のうちに、
__朽ちもせぬこの川柱のこらずは
__昔のあとをいかで知らまし
その夜は、くろとの浜と言ふ所に泊まる。
とてふかき河を舟にてわたるむかし
の門のはしらのまたのこりたる
とておほきなるはしらかはのなかに
よつたてりひと〳〵うたよむをきゝて
心のうちに
くちもせぬこのかはゝしらのこらすは
むかしのあとをいかてしらまし
その夜はくろとのはまといふ所にとまる
p.11 片つ方はひろ山なる所の
まんじりともしないで起きていよう。今宵をおいて、またいつ見ることがあろう。このくろとの浜の秋の夜の月を。
その翌朝、「くろとの浜」を発って、下総の国と武蔵の国との境である太井川という川の上流の浅いところ、「まつさと」の
広々とした丘の意か。「ひろ山」の用例がないので、「ひろやか」の誤りとする説もある。【新全集】
「ひろ山」の用例はないが、ひろびろとした砂丘をいうのであろう。【新大系】
▶太井川
「太日川」の字もあてる。現在の江戸川の下流。ただし下総と武蔵との境を流れるのは隅田川であり、ここも記憶違いである。【新全集】
▶まつさとの渡りの津
千葉県松戸市。古名「馬津(うまつと)」の転訛ないし作者の聞き違えであろう。「わたり」は渡し場。「津」は船着き場。【新全集】
はるばると白きに、松原、茂りて、
月、いみじう明きに、風の音もいみ
じう心ぼそし。人々、をかしがりて、
歌詠みなどするに、
__まどろまじ今宵ならではいつか見む
__くろとの浜の秋の夜の月
そのつとめて、そこを発ちて、しもつさ
の国と武蔵との境にてある
太井川と言ふが上の瀬、まつさとの
はる〳〵としろきに松原しけりて
月いみしうあかきに風のをともいみ
しう心ほそし人々おかしかりて
うたよみなとするに
まとろましこよひならてはいつか見む
くろとのはまの秋のよの月
そのつとめてそこをたちてしもつさ
のくにとむさしとのさかひにてある
ふとゐかはといふかゝみのせまつさとの
太井川
p.12 まつさとの渡りの津に
舟に載せて堪えるだけの分量を少しずつ。堪える、できるの意の動詞「かつ」の畳語の副詞化したもの。【新全集】
耐えるの意の動詞「かつ」を重ねた副詞で、不満足ながらもともかくも。どうにかこうにか。【新大系】
▶子、産みたりしかば、離れてべちに上る
出産は慶事であると同時に穢れでもある。穢れを忌みかつ産後の回復を待って上京するのである。【新全集】
(略)産後の身体で「まつさと」までは一行と行を共にしたが、これ以上の同行は無理になったのである。【新大系】
にて、かつがつ物など渡す。乳母なる
人は、をとこなども亡くなして、境
にて、子、産みたりしかば、離れて
べちに上る。いと恋しければ、行か
まほしく思ふに、せうとなる人、抱きて
率て行きたり。皆人は「かりそめの仮屋」
など言へど、風、すくまじく、ひきわたし
などしたるに、これは、をとこなども添はねば、
にてかつ〳〵物なとわたすめのとなる
人はおとこなともなくなしてさか
ひにてこうみたりしかはゝなれて
へちにのほるいとこひしけれはいかま
ほしく思にせうとなる人いたきて
ゐていきたりみな人はかりそめのかり
やなといへと風すくましくひきわた
しなとしたるにこれはおとこなともそはねは
p.13 いと手はなちに
手を加えてないこと。放りっぱなしであること。【古・岩】
手を抜いて簡略なこと。【新全集】
(仮屋の造りも)ひどく手を省いて。【新大系】
▶月影
月の光を受けた乳母の姿。【新全集】
月光に照らされた姿。【新大系】
▶さやうの人にはこよなく過ぎて
その身分に不似合いなほど上品に。【新全集】
乳母といった身分の人には不似合いなほど上品で。【新大系】
言ふものを一重、うちふきたれば、月、
残りなくさし入りたるに、紅の衣、
上に着て、うちなやみて臥したる月
かげ、さやうの人にはこよなく過ぎて、
いと白く清げにて、「めづらし」と
思ひてかき撫でつつ、うち泣くを、いと
あはれに見捨てがたく思へど、急ぎ
率て行かるる心地、いと飽かず、わりなし。
面影に覚えて悲しければ、月の興も
いふ物をひとへうちふきたれは月
のこりなくさしいりたるに紅のきぬ
うへにきてうちなやみてふしたる月
かけさやうの人にはこよなくすきて
いとしろくきよけにてめつらしと
おもひてかきなてつゝうちなくをいと
あはれに見すてかたくおもへといそき
ゐていかるゝ心地いとあかすわりなし
おもかけにおほへてかなしけれは月のけうも
p.14 月の興も覚えずくんじ臥しぬ
くんじ【屈じ】〘サ変〙《促音には一定の表記法がなかったので、クッシの促音ツをンで表記したものを、音のままに読んだ形》心がふさぐ。気がめいる。【古・岩】
「くんじ」は「屈(くっ)し」の促音を「ん」で表記したのが定着したもので、気がめいる意。ふさぎこんで寝てしまった。【新大系】
▶武蔵の国
現在の東京都及び神奈川、埼玉両県の一部を含む地域。【新全集】
▶むらさき
紫草。多年草で丈は五〇~八〇センチ、六月中旬に白い花をつける。根は紫色の染料として珍重された。武蔵野はこの産地として知られ、「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(古今・雑上 読人しらず)などの古歌で有名。【新全集】
に車、かき据ゑて渡して、あなたの
岸に、車、ひきたてて、送りに
来つる人々、これより皆、帰りぬ。上る
は、とまりなどして、行き別るるほど、
行くも止まるも、皆、泣きなどす。
幼心地にもあはれに見ゆ。今は武蔵
の国になりぬ。ことにをかしき所
も見えず。浜も砂子、白くなども
なく、泥のやうにて、「むらさき、生ふ」と
に車かきすへてわたしてあなたの
きしにくるまひきたてゝをくりに
きつる人々これよりみなかへりぬのほ
るはとまりなとしていきわかるゝほと
ゆくもとまるもみなゝきなとすおさ
な心地にもあはれに見ゆ今はむさ
のくにゝなりぬことにおかしき所
も見えすはまもすなこしろくなとも
なくこひちのやうにてむらさきおふと
竹芝寺
p.15 紫、生ふと聞く野も
竹芝(柴)という寺。東京都港区三田の済海寺がその跡という(江戸名所図会巻一)が、なお定かでない。【新全集】
▶ははさう
意味不明。底本もこの部分に朱点を付し疑問とする。「はうざう(宝蔵)」の誤りかとする説もある。【新全集】
▶らうの跡
「廊」「領」「楼」をあてる諸説がある。一応「廊」に従っておく。【新全集】
「廊」「楼」「領」をあてる諸説がある。【新大系】
▶竹芝と言ふ坂
「さか」は坂。他に「さう」の誤写として荘園と解き、また「さうなる国の人」と改めて、「さう」に「姓」をあてる説もある。【新全集】
底本のままだと「坂」だが、意味がおだやかでない。「さう(荘)」の誤写とみなして荘園ととる説、「也」はもと「なり」で、その「り」も「る」の誤写とみなして「たけしばといふさう(姓)なるくにの人」ととる説などがある。「姓」説は、文意の上でも、段末の「やがてむさしといふ姓(さう)をえてなむありける」との対応からいっても、すてがたい。【新大系】
▶火たき屋
ひたきや【火焼屋】①宮中で、衛士が篝火などをたいて夜警をする所。【古・岩】
▶衛士
ゑじ【衛士】諸国の軍団から選抜し、衛士府(のちに衛門府)に配当された兵士。公事の雑役や御殿の清掃に従事し、庭火を焚いた。【古・岩】
諸国から選ばれて宮中警備に当たった兵士。一年交替。【新大系】
馬に乗りて、弓、持たる末、見えぬまで、
高く生ひ茂りて、中を分け行く
に、たけしばと言ふ寺あり。はるかに、
ははさうなどと言ふ所の、らうの跡の
礎など、あり。「いかなる所ぞ」と問へば、
「これはいにしへ、たけしばと言ふ坂なり。
国の人のありけるを、火たき屋の、
火、焚く衛士に指し、奉りたり
けるに、御前の庭を掃くとて、『などや、
むまにのりてゆみもたるすゑ見えぬま
てたかくおいしけりて中をわけゆく
にたけしはといふ寺ありはるかに
はゝさうなといふ所のらうのあとの
いしすゑなとありいかなる所そとゝへは
これはいにしへたけしはといふさか也
くにの人のありけるを火たきやの
火たくゑしにさしたてまつりたり
けるに御前の庭をはくとてなとや
p.16 などや苦しき目を見るらむ
「七つ三つ」は、あちらに一かたまり、こちらに一かたまりと、無造作に置かれた風景を民謡風に表現したもの。【新全集】
あちらに七つ、こちらに三つといった具合に。【新大系】
▶ひたえの瓢
瓢箪(ひょうたん)を縦に二つに割って作った「ひしゃくふくべ」であろう。「ひたえ」は直柄で、水を汲む部分がそのまま細長く伸びて柄をなしたもの。【新全集】
「ひさご」は瓢箪を二つに割って作ったひしゃく。「ひたえ(直柄)」は胴の細い部分をそのまま柄にしたもの。【新大系】
七つ三つ、つくり据ゑたる酒壺に、
さし渡したるひたえの瓢の、
南風、吹けば北になびき、
北風、吹けば南になびき、西、吹け
ば東になびき、東、吹けば西になびく
を見で、かくてあるよ』と、ひとりごち、
つぶやきけるを、その時、帝の御むすめ、
いみしうかしづかれ給ふ、ただ一人、御簾
の際に立ち出で給ひて、柱に
七三つくりすへたるさかつほにさ
しわたしたるひたえのひさこの
みなみ風ふけはきたになひき
北風ふけは南になひきにしふけ
は東になひき東ふけは西になひ
くを見てかくてあるよとひとりこちつ
ふやきけるをその時みかとの御むすめ
いみしうかしつかれ給たゝひとりみ
すのきはにたちいて給てはしらに
p.17 寄りかかりてご覧ずるに
中古語では、侍臣・兵卒・下僕など、人に仕える男子をいう。【新全集】
中古語では多く軍卒・侍臣・下僕等、人に仕える男子の意。【新大系】
▶高欄
かうらん【高欄】①殿舎のまわりや、廊・階段などの両側に設けた欄干。【古・岩】
かくひとりごつを、いとあはれに、『いか
なる瓢の、いかになびくらむ』と、
いみじうゆかしく覚されければ、
御簾を押し上げて、『あのをのこ、こち、
寄れ』と召しければ、かしこまりて、
高欄のつらに参りたりければ、
『言ひつること、今ひとかへり、我に言ひて
聞かせよ』と仰せられければ、酒壺
のことを、今ひとかへり、申しければ、『我
かくひとりこつをいとあはれにいか
なるひさこのいかになひくならむと
いみしうゆかしくおほされけれは
みすをゝしあけてあのをのこゝち
よれとめしけれはかしこまりてか
うらんのつらにまいりたりけれは
いひつることいまひとかへりわれにいひて
きかせよとおほせられけれはさかつほ
のことをいまひとかへり申けれは我
p.18 率て行きて見せよ
琵琶湖に発する勢田(勢多)川の、琵琶湖南端の落ち口近くにかかる橋。いわゆる瀬田の唐橋。今日を護る東の要衝である。【新全集】
琵琶湖に発する瀬田川の河口にかかっていた橋。【新大系】
▶一間
「間」は、長さとは必ずしも関係なく、建物の柱と柱との間をいう。ここは橋脚と橋脚の間をさす。【新全集】
「間」は柱と柱の間。ここは橋桁と橋桁との間。【新大系】
▶七日七夜
『延喜式』主計上によれば、京から武蔵への下向所要日数は十五日。【新全集】
延喜主計式に、武蔵国へ下向する所要日数は十五日と定められている。【新大系】
仰せられければ、『かしこく、おそろ
し』と思ひけれど、さるべきにやありけむ、
負ひ奉りて下るに、『論なく、
人、追ひて来らむ』と思ひて、その夜、勢
多の橋のもとに、この宮を据ゑ奉り
て、勢多の橋を一間ばかり
こほちて、それを飛び越えて、この宮
をかき負ひ奉りて、七日七夜と
言ふに、武蔵の国に行き着きにけり。
おほせられけれはかしこくおそろ
しと思けれとさるへきにやありけむ
おいたてまつりてくたるにろんなく
人をひてくらむと思てその夜勢
多のはしのもとにこの宮をすへたて
まつりてせたのはしをひとまはかり
こほちてそれをとひこえてこの宮
をかきおいたてまつりて七日七夜と
いふにむさしのくにゝいきつきにけり
p.19 帝、后、御子、失せ給ひぬと
まどひ、求め給ふに、『武蔵の国の衛
士のをのこなむ、いと香ばしきもの
を首にひきかけて、飛ぶやうに逃げ
ける』と申し出でて、このをのこを尋ぬるに、
なかりけり。論なく、もとの国に
こそ行くらめと、おほやけより使ひ、
下りて追ふに、勢多の橋、こほれて、
え行きやらず。三月と言ふに、武蔵
の国に行き着きて、このをのこを尋ぬるに、
まとひもとめ給に武蔵のくにのゑ
しのをのこなむいとかうはしき物
をくひにひきかけてとふやうにゝけ
けると申いてゝこのをのこをたつぬるに
なかりけりろんなくもとのくにゝ
こそゆくらめとおほやけよりつかひ
くたりてをふにせたのはしこほれて
えゆきやらす三月といふにむさし
のくにゝいきつきてこのをのこをたつぬるに
p.20 この御子、公使ひを召して
「れうぜ」はサ変動詞「れう(掠)ず」の未然形。正しくは「りやう(掠)ず」で、「掠ず」は罪人を鞭打つこと。「られ」は受身、尊敬両説があるが、受身とするのが穏当であろう。【新全集】
正しくは「掠(りやう)ず」で、罪人をむち打つこと。「られ」は受身で、「罪し」をも受ける。【新大系】
▶あとをたる
あとを垂る《「垂迹(すいじやく)」の訓読後》仏が仮に神の姿となって現れる。【古・岩】
垂迹。本来仏教用語で、仏が衆生済度のため、仮にこの世に姿を現すこと。転じて、ここは高貴な身分の皇女がこの地に住みついて子孫を残す意。【新全集】
さるべきにやありけむ、このをのこの
家、ゆかしくて、率て行け、と言ひしかば、
率て来たり。いみじくここありよく
覚ゆ。このをのこ罪し掠ぜら
れば、我はいかであれ、と。これも、さきの
世に、この国にあとをたるべき宿世
こそありけめ。はや、帰りて、おほやけに
この由を奏せよ』と仰せられければ、
言はむ方なくて、上りて、帝に、
さるへきにやありけむこのをのこの
家ゆかしくてゐてゆけといひしかは
ゐてきたりいみしくこゝありよく
おほゆこのをのこつみしれうせら
れは我はいかてあれとこれもさきの
世にこのくにゝあとをたるへきすくせ
こそありけめはやかへりておほやけに
このよしをそうせよとおほせられけ
れはいはむ方なくてのほりてみかとに
p.21 かくなむありつる
おほやけごと【公事】㋺朝廷への奉公・年貢・賦役。【古・岩】
租税や労役など、公に対する義務。【新大系】
▶宣旨
せんじ【宣旨】《勅旨を伝宣する意》①天皇の命令を述べ伝える公文書。詔勅に比して手続きが簡単で、勅旨が蔵人から上卿に伝えられ、外記・弁官の手を経て、宣旨の形式をもつ文書とされた。勅旨を受けずに太政官の命として出される官宣旨もある。【古・岩】
天皇の命を伝える公文書。詔勅が表向きであるのに対して、内輪的なもの。【新全集】
天皇の命令を伝える公文書。詔勅が正式のものであるのに対して、略式のもの。【新大系】
『言ふ甲斐なし。そのをのこを罪し
ても、今はこの宮を取り返し、
都に返し奉るべきにもあらず。
竹芝のをのこに、生けらむ世の
かぎり、武蔵の国を預け取ら
せて、おほやけごともなさせじ。ただ、
宮にその国を預け奉らせ
給ふ』由の宣旨、下りにければ、この家
を、内裏のごとくにつくりて住ませ奉りける
いふかひなしそのをのこをつみし
てもいまはこの宮をとりかへしみや
こにかへしたてまつるへきにもあらす
たけしはのをのこにいけらむ世の
かきり武蔵のくにをあつけとら
せておほやけこともなさせじたゝ
宮にそのくにをあつけたてまつらせ
給よしの宣旨くたりにけれはこの家
を内裏のことくつくりてすませたてまつりける
p.22 住ませ奉りける家を
野山の蘆や荻の中を踏み分ける以外にほかのことがなくて、武蔵と相模との国境を流れる「あすだ川」という、在五中将業平が「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と詠んだ渡し場に来た。しかし、中将の家集には、
「在五中将の…」とあるから、この川は「すみだ川」である。この川は古く「すだ川」(スミダ→スンダ→スダ)と呼ばれたが、「あすだ川」と呼ばれた例はない。(中略)いずれにせよ、武蔵、相模の国境を流れるとするのは、例の記憶違いである。【新全集】
▶中将の集
在五中将の家集。『業平朝臣集』をさすが、現存本は後人の手に成る。【新全集】
業平の家集を指すが、現存する四系統の業平集と同じものかどうかは不明。【新大系】
なしたるを、竹芝寺と言うなり。
その宮の産み給へる子どもは、やがて
武蔵と言ふ姓を得てなむありける。
それよりのち、火たき屋に女はゐる
なり」と語る。野山、蘆荻の中を
分くるよりほかのこと、なくて、武蔵と
相模との中にゐて、あすだ川と
言ふ在五中将の「いざこと問はむ」と詠み
けるわたりなり。中将の集には、
なしたるをたけしはてらといふ也
その宮のうみ給へることもはやかて
むさしといふ姓をえてなむありける
それよりのち火たきやに女はゐる
也とかたる野山あしおきのなかを
わくるよりほかのことなくてむさしと
さかみとの中にゐてあすた河と
いふ在五中将のいさことゝはむとよみ
けるわたりなり中将のしふには
p.23 すみだ川とあり
藤沢市西富付近かという。一説に箱根山中の西土肥が「にしとみ」に転訛したものとするが、地理的順路と下文の海浜風景から藤沢のほうが穏当。【新全集】
▶もろこしが原
大磯付近一帯の海岸を広く称したらしい(大日本地名辞書)が、二、三日の行程とすれば、戸塚より大磯、二宮を経て小田原に及ぶものであろうか。【新全集】
▶大和撫子
やまとなでしこ【大和撫子】ナデシコの異名。セキチクを「唐撫子」というのに対する。【古・岩】
カワラナデシコ。夏から秋にかけて淡紅色の花をつける。カラナデシコ(石竹)に対する名。【新大系】
相模の国になりぬ。にしとみと言ふ
所の山、絵、よく描きたらむ屏風を立
て並べたらむやうなり。片つ方は、
海、浜の様も、寄せかへる波の
景色も、いみじうおもしろし。もろこ
しが原と言ふ所も、砂子のいみじ
う白きを、二三日、行く。「夏は、大和
撫子の、濃く薄く、錦を
引けるやうになむ咲きたる。これは、
さかみのくにゝなりぬにしとみといふ
所の山ゑよくかきたらむ屏風をた
てならへたらむやう也かたつかたは
海はまのさまもよせかへる浪のけ
しきもいみしうおもしろしもろこ
しかはらといふ所もすなこのいみし
うしろきを二三日ゆく夏はやま
となてしこのこくうすくにしきを
ひけるやうになむさきたるこれは
足柄山
p.24 これは秋の末なれば
相模と駿河の国境を南北に走る連峰。東南に箱根山があるが、東海道は当時まだ箱根を通らず足柄を越えていた。【新全集】
▶四五日かねて
かねて【予て】〘連語〙《日数を示す語の下について助詞的に》…前から。【古・岩】
四、五日前から、の意とみておく。「かねて」は前もっての意。「四、五里かねて」の誤写と見る説もある。【新全集】
「…かねて」の用例は「二三日かねて大殿に夜にかくれてわたりたまへり」(源氏物語・須磨)のように、現在以前のある一日に限定して用いられることが多い。しかし、後出の「五日かねては」は「(出発の)五日前からは」という継続の意だから、ここも「四五日前から」の意にとっておく。(下略)【新大系】
ところどころはうちこぼれつつ、あはれげ
に咲きわたれり。もろこしが原に、
大和撫子しも咲きけむこそ
など、人々、をかしがる。足柄山と
言ふは、四五日かねて、恐ろしげに
暗がりわたれり。やうやう入りたつ
麓のほどだに、空のけしき、はかばか
しくも見えず。えも言はず茂り
わたりて、いと恐ろしげなり。
ところ〳〵はうちこほれつゝあはれけ
にさきわたれりもろこしかはらに
山となてしこしもさきけむこそ
なと人々おかしかるあしから山と
いふは四五日かねておそろしけに
くらかりわたれりやう〳〵いりたつ
ふもとのほとたにそらのけしきはか〳〵
しくも見えすえもいはすしけり
わたりていとおそろしけなり
p.25 麓に宿りたるに
旅人の宿を訪れ、歌舞などによって旅情を慰めることを業とした婦女。【新全集】
歌舞で旅人を慰めることを業とした女。【新大系】
▶額
ひたひ【額】②「額髪」の略。【古・岩】
額から両頬に垂した、いわゆる額髪。【新全集】
前髪を二つに分け、額から左右の頬に垂らした髪。額髪。【新大系】
▶さてもありぬべき下仕へなどにてもありぬべし
それ相当な下仕えとしてもつとまるだろう。「しもづかへ」は貴族の家で雑用をする下女。【新大系】
暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、
遊女、三人、いづくよりともなく出
で来たり。五十ばかりなる一人、二十ばかり
なる、十四五なるとあり。庵の前に
唐笠をささせて据ゑたり。をのこ
ども、火を灯して見れば、昔、こ
はたと言ひけむが孫と言ふ。髪、いと
長く、額、いとよくかかりて、色、白
く汚げなくて、「さてもあるぬべき
くらき夜のやみにまとふやうなるに
あそひ三人いつくよりともなくい
てきたり五十許なるひとり二十許
なる十四五なるとありいほのまへに
からかさをさゝせてすへたりをのこ
とも火をともして見れはむかしこ
はたといひけむかまこといふかみいと
なかくひたひいとよくかゝりていろし
ろくきたなけなくてさてもありぬへき
p.26 下仕えなどにても
けぢかし【気近し】〘形ク〙①《「気遠し」の対》近く感じられる。身近である。②《「気高し」》親しみ易い。【古・岩】
身近に呼び寄せて。【新全集】
▶西国
にしぐに【西国】京都より西にある国。特に西海道をさすこともある。【古・岩】
上方。江口(大阪市東淀川区)・神崎(兵庫県尼崎市)は水路の要衝として賑わい、この地の遊女はことに有名だった。【新全集】
▶難波わたりに比ぶれば
前出の江口・神崎あたりをさす。「難波辺りに…」は、当時の今様歌をとっさの機転で改作したものであろう。【新全集】
即興で今様仕立てにして歌ったものであろう。「難波」は大阪市付近の古称で、淀川べりの江口や神崎の遊女はことに名高い。【新大系】
など、人々、あはれがるに、声、すべて
似るものなく、空に澄みのぼり
てめでたく歌を歌ふ。人々、
いみじうあはれがりて、気近くて、
人々、もて興ずるに、「西国の遊女
はえかからじ」など言ふを聞きて、
「難波わたりに比ぶれば」めでた
く歌ひたり。見る目のいと汚げな
きに声さへ似るものなく
なと人々あはれかるにこゑすへて
にるものなくそらにすみのほり
てめてたくうたをうたふ人々
いみしうあはれかりてけちかくて
人々もてけうするににしくにのあ
そひはえかゝらしなといふをきゝて
なにはわたりにくらふれはとめてた
くうたひたり見るめのいときたな
けなきにこゑさへにるものなく
p.27 声さへ似るものなく歌ひて
葵は賀茂神社の祭礼に用いられ、また「逢ふ日」の掛詞として和歌にも常用される、都人にとっては親しい草だから、ことさら「世ばなれて…」という感慨を催したのであろう。【新大系】
山路に葵は格別珍しくもないが、都人にとっては、葵祭(賀茂神社の祭)を連想するもの。また歌語では「逢ふ日」にかけて常用される懐かしいものである。その葵が恐ろしげな山中のささやかな空地に、人に逢うこともなく寄り添うようにただ三筋生えていた。作者はよくぞこんな所にと殊勝に思い、かつまた流離の感慨を催したものであろう。【新全集】
山中に、たちて行くを、人々、飽かず
思ひて、みな、泣くを、幼き心地には、
ましてこの宿りを発たむことさへ、
飽かず覚ゆ。まだ暁より足柄を
越ゆ。まいて山の中の
恐ろしげなること、言はむ方なし。雲は、
足の下に踏まる。山の中らばかりの、
木の下のわづかなるに、葵の、
ただ三筋ばかりあるを、「世離れて
山中にたちてゆくを人々あかす思
てみなゝくをおさなき心地にはま
してこのやとりをたゝむことさへあ
かすおほゆまたあかつきよりあし
からをこゆまいて山のなかのおそろ
しけなる事いはむ方なし雲は
あしのしたにふまる山のなから許
の木のしたのわつかなるにあふひ
のたゝみすちはかりあるを世はなれて
p.28 かかる山中にしも
せきやま【せきやま】関所のある山路。【古・岩】
関所のある山。この関は次の横走の関。【新全集】
▶駿河
するが【駿河】旧国名の一。東海道十五国の一で、今の静岡県中央部。駿州。【古・岩】
現在の静岡県東部、大井川以東の伊豆半島を除く地域。【新全集】
▶横走
静岡県駿東郡小山町のあたりを、古く横走郷といった。関はこのあたりであろうが所在は不明である。【新全集】
▶岩壺
岩の窪んで壺形になった所か。普通名詞から生れた地名であろうが、不明。【新全集】
あはれがる。水は、その山に三ところぞ
流れたる。からうじて、越え出でて、関山に
とどまりぬ。これよりは駿河なり。
横走の関のかたはらに、岩壺
と言ふ所あり。えも言はず
大きなる石の四方なる中に、穴
のあきたる中より出づる水の、清く
つめたきこと、かぎりなし。富士の山は
この国なり。わが生ひ出でし
あはれかる水はその山に三所そ
なかれたるからうしてこえいてゝせき
山にとゝまりぬこれよりは駿河也
よこはしりの関のかたはらにいは
つほといふ所ありえもいはすおほ
きなるいしのよほうなる中にあな
のあきたる中よりいつる水のきよ
くつめたきことかきりなしふし
の山はこのくに也わかおいゝてし
p.29 わが生ひ出でし国にては
にしおもて【西面】①西側。【古・岩】
▶色濃き衣
色について「こし」というのは紫か紅の場合が多い。ここは紫。【新大系】
色について「濃き」というのは、普通、紫・紅についてである。ここは紫。【新全集】
▶衵
着物と着物の間に着こめる丈の短い衣服。特に、童女が衵の上に着る上着を略した姿を衵姿といい、ここもそれにたとえたのだろう。【新大系】
単衣(ひとえ)と下襲(したがさね)の間に着た短い衣服。ここは、女童(めのわらわ)などが表着を略して、紺青の衣の上に白い衵を着た、いわゆる衵姿をいう。【新全集】
▶煙は立ちのぼる
日本紀略・延暦十九年(八〇〇)六月条によれば、富士山は平安初頭までは活火山だったが、古今集成立期には休火山となっていた(古今集・仮名序)。この当時また活動を開始していたことが知られる。【新大系】
▶清見が関
静岡県清水市興津清見寺の位置にあったという。【新全集】
その山のさま、いと、世に見えぬさま
なり。さま、異なる山の姿の、紺青
を塗りたるやうなるに、雪の、
消ゆる世もなく積もりたれば、
色濃ききぬに、白き衵、着たらむ
やうに見えて、山の頂の、
少したひらぎたるより、煙は
立ちのぼる。夕暮れは、火の燃え立つ
も見ゆ。清見が関は、片つ方は
その山のさまいと世に見えぬさま
なりさまことなる山のすかたのこむ
しやうをぬりたるやうなるにゆき
のきゆる世のなくつもりたれは
いろこきゝぬにしろきあこめきた
らむやうに見えて山のいたゝきの
すこしたひらきたるよりけふりは
たちのほるゆふくれは火のもえ立
も見ゆきよみか関はかたつかたは
p.30 片つ方は海なるに
関所の番小屋。【古・岩】
▶くぎぬき
くぎぬき【釘貫】①立て並べた柱や杭に横に貫(ぬき)を通した柵。【古・岩】
▶煙りあふにやあらむ
藤の煙と潮煙とがけぶりくらべをするのであろうか。ここは、関屋の煙と潮煙とが一緒になる、潮煙と潮煙とがけぶりあうなど諸説があり、諸注で難解とされているが、直前で富士の煙のことをのべているから、試解のように、誇張のおもしろさを意図した表現と解しておく。下文の「清見が関の浪もたかくなりぬべし」にもそのような口吻がある。【新大系】
この句は唐突で不審。直前に富士の煙があるので、潮煙が富士の煙と呼応誘発するせいだろうか、の意と解しておく。この句は「清見が関の浪もたかくなりぬべし」の原因提示と見られるからである。ほかに、潮煙が関屋の煙と一緒になる、また潮煙が互いにけぶり合う、などの解もある。【新全集】
▶すり粉
すりこ【磨粉】米の粉。湯にといて、母乳の代用として用いる。【古・岩】
▶富士川
八ヶ岳に発する釜無川と甲武信岳に発する笛吹川が合流、富士山西麓を南下し、蒲原西方で駿河湾に注ぐ川。富士山を源流とするものではない。【新全集】
▶清見が関・田子の浦・大井川・富士川
このあたり、清見が関、田子の浦、大井川、富士川の順序で地名が出てくるが、実際は、富士川、田子の浦、清見が関、大井川の順序でなければならない。【新大系】
海までくぎぬきしたり。煙り
あふにやあらむ、清見が関の波も、
高くなりぬべし。おもしろきこと、
かぎりなし。田子の浦は、波、高くて、
舟にて漕ぎめぐる。大井川と
言ふわたりあり。水の、世の常ならず、
すり粉などを、濃くて流したらむ
やうに、白き水、早く流れたり。
富士川と言ふは、富士の山より
うみまてくきぬきしたりけふり
あふにやあらむきよみかせきの浪も
たかくなりぬへしおもしろきこと
かきりなしたこの浦は浪たかくて
舟にてこきめくるおほゐかはと
いふわたりあり水の世のつねならす
すりこなとをこくてなかしたらむ
やうにしろき水はやくなかれたり
ふし河といふはふしの山より
富士川
p.31 富士の山より落ちたる水なり
ほぐ【反古・反故】《古形はホクと清音。字音のままホンコとも。転じてホウゴ・ホウグとも》①文字などを書いて、不用になった紙。【古・岩】
▶除目のごと
ぢもく【除目】《「除」は宮中の階段。階段をのぼる意から、宮を拝すること。「目」は書。任官の書の意》大臣以外の中央官ならびに地方官を任命する儀式。主として地方官を任ずる春の県召(あがためし)の除目と、主として中央官を任ずる秋の司召(つかさめし)の除目とがあり、他に臨時の除目があった。【古・岩】
大臣以外の官吏任命の儀式。または任命目録。「ごと」は「ごとく」の意。「除目の事」と解する説もある。【新大系】
大臣以外の諸官を任命する公事。旧官を除いて新官を任じ、これを目録に記す意で除目という。除目には春の県召(地方官の任命)と秋の司召(京官の任命)があり、この両者を総称して司召ともいう。ここは県召。【新全集】
語るやう、「ひととせごろ、物に罷り
たりしに、いと暑かりしかば、この
水のつらに休みつつ見れば、川上
のかたより、黄なる物、流れ来て、物に
つきてとどまりたるを見れば、反故
なり。取り上げて見れば、黄なる紙に、丹して、
濃く、麗しく書かれたり。
あやしくて見れば、来年、なるべき
国どもを、除目のごと、みな、書きて、
かたるやうひとゝせころ物にまかり
たりしにいとあつかりしかはこの
水のつらにやすみつゝ見れは河上
の方よりきなる物なかれきて物に
つきてとゝまりたるを見れはほく
なりとりあけて見れはきなるかみ
にしてこくうるわしくかゝれたり
あやしくて見れはらいねんなるへき
くにともをちもくのことをみなかきて
p.32 この国、来年、空くべきにも
「司召の除目」の略。主として地方官を任命する春の県召(あがためし)と、主として中央官を任命する秋の司召とがあり、両者を総称して司召ともいう。ここは総称で、県召のこと。【新大系】
なして、また、添へて二人をなしたり。
『あやし、あさまし』と思ひて、取り上げて、
乾して、をさめたりしを、かへる年の
司召に、この文に書かれ
たりし、一つ違はず、この国の守と
ありしままなるを、三月のうちに
なくなりて、また、なり代はりたるも、この
かたはらに書きつけられたりし
人なり。かかる事、なむありし。
なして又そへて二人をなしたり
あやしあさましと思てとりあけて
ほしておさめたりしをかへる年の
つかさめしにこのふみにかゝれ
たりしひとつたかはすこのくにのかみ
とありしまゝなるを三月のうちに
なくなりて又なりかはりたるもこ
のかたはらにかきつけられたりし
人なりかゝる事なむありし
p.33 来年の司召などは
所在不明。【新全集】
▶遠江
とほたふみ【遠江】《トホツアフミの約》旧国名の一。東海道十五国の一で、今の静岡県西部。遠州。【古・岩】
「遠つ淡海」の約。今の静岡県の西部をいう。【新全集】
▶さやの中山
静岡県掛川市日坂(にっさか)と榛原(はいばら)郡金谷町菊川の間にある山。歌枕として有名。「甲斐が嶺をさやにも見しかけけれなく横ほり伏せるさやの中山」(古今・東歌)など。【新全集】
▶天ちう・天らう・天竜
天竜川。諏訪湖に発し伊那を経て南下し遠州灘に注ぐ。『玉勝間』に「天竜川をいにしへは天の中川といひけるよし」とあり。また『海道記』に「天中川を渡れば」など見え、古くは天中川といったらしい。【新全集】
この山に、そこばくの神々、集まりて、
ない給ふなりけりと見給へし。めづらかなる
ことにさぶらふ」と語る。ぬまじりと
言ふ所も、すがすがと過ぎて、いみじく
わづらひ出でて、遠江にかかる。
さやの中山など、越えけむほども
覚えず。いみじく苦しければ、てんらう
と言ふ川のつらに、仮屋、つくり
設けたりければ、そこにて日ごろ
この山にそこはくの神々あつまりて
ない給なりけりと見給へしめつらかな
る事にさふらふとかたるぬましりと
いふ所もすか〳〵とすきていみしく
わつらひいてゝとうたうみにかゝる
さやのなか山なとこえけむほとも
おほえすいみしくゝるしけれは天
ちうといふ河のつらにかりやつくり
まうけたりけれはそこにて日ころ
p.34 そこにて日ごろ過ぐるほどにぞ
天中河の渡し場を渡って。【新大系】
▶浜名の橋
浜名湖が海に通ずる河口にかかった橋。【新大系】
浜名湖より外海に流れる浜名川にかけてあった橋。『三代実録』元慶八年九月朔の条に、「長五十六丈、広一丈三尺、高一丈六尺」とあるが、しばしば破損、改修を繰り返していたらしい。【新全集】
▶入江に渡りし橋なり
「入江にわたりたりし橋なり」、あるいは「入江にわたしたりし橋なり」とでもありたいところで、そのため「入江に、わたり、しばしなり」と読み、「そこは入江で、ほんのちょっとの間のわたりである」と訳す説もある。しかし、そのように解釈するには「入江にて、わたり、しばしなり」か、「入江をわたり、しばしなり」という本文でなければ無理であろう。【新大系】
この部分は、「入江に、わたり、しばしなり」と読む考えもある。これによれば、「ここは入江で、舟で渡るにしても、ほんのちょっとの間である」の意となる。【新全集】
冬、深くなりたれば、川風、けはしく
吹き上げつつ、堪へがたく覚え
けり。そのわたりして、浜名の
橋に着いたり。浜名の橋、
下りし時は、黒木を渡し
たりし、この度は、跡だに見えねば、
舟にて渡る。入江にわたりし
橋なり。外の海は、いといみじく悪しく、
冬ふかくなりたれは河風けはし
くふきあけつゝたえかたくおほ
えけりそのわたりしてはまなの
はしについたりはまなのはし
くたりし時はくろ木をわたし
たりしこのたひはあとたにみえね
は舟にてわたるいり江にわたりし
はし也とのうみはいといみしくあしく
p.35 波、高くて
「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波もこえなむ」(古今集・東歌)。【新大系】
「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波もこえなむ」(古今集・東歌)などをふまえた表現。【新全集】
▶ゐのはな
猪鼻。『延喜式』に見える宿駅だが所在不明。浜名郡湖西町か新居町あたりかという。【新全集】
▶三河
みかは【三河】旧国名の一。東海道十五国の一。今の愛知県東部。三州。【古・岩】
▶高師の浜
豊橋市の東南で、愛知県渥美郡高師村を中心とした一帯。歌枕として有名。【新全集】
▶八橋
愛知県知立(ちりゅう)市にあったという。伊勢物語・九段に「そこを八橋といひけるは、水ゆく川の蜘蛛手(くもで)なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける」とある。【新大系】
愛知県知立市の東方。『伊勢物語』に「そこを八橋といひけるは、水ゆく川の蜘蛛手なれば橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける」とあり、「唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」の歌で有名。【新全集】
ことものもなく、松原の茂れる
中より、波の寄せかへるも、いろいろの
玉のやうに見え、まことに、松の末
より、波は越ゆるやうに見えて、
いみじくおもしろし。それよりかみは、
ゐのはなと言ふ坂の、えも言はず
わびしきを上りぬれば、三河の国の
高師の浜と言ふ。八橋は
名のみして、橋のかたもなく、何の
ともにこと物もなく松原のしけれる
なかより浪のよせかへるもいろ〳〵の
たまのやうに見えまことに松のす
ゑよりなみはこゆるやうに見えて
いみしくおもしろしそれよりかみ
はゐのはなといふさかのえもいはす
わひしきをのほりぬれはみかはのく
にのたかしのはまといふやつはし
は名のみしてはしの方もなくなにの
p.36 何の見どころもなし
嵐も吹いてこないのだな、この宮路山には。まだ紅葉が散らないで残っている。
三河と尾張との境にある「しかすが」の渡し場は、
愛知県岡崎市の東部本宿付近とも、豊明市沓掛地内の山ともいう。歌枕。【新全集】
▶宮路の山
宝飯(ほい)郡音羽町と御津町の境にある。歌枕。【新全集】
▶尾張
をはり【尾張】旧国名の一。東海道十五国の一で、今の愛知県西北部。尾州。【新全集】
▶しかすが
「しかすがに」は、そうはいうもののやはりの意の副詞。【新大系】
宝飯郡豊川の河口にあった渡船場。三河と尾張の国境とあるが、実際はその東南にあたる。「しかすが」は、そうはいうもののやはり、さすがに、の意をもつ。【新全集】
たる夜、大きなる柿の木の
下に庵をつくりたれば、夜一夜、
庵の上に柿の落ちかかりたるを、
人々、拾ひなどす。宮路の山と言ふ
所、越ゆるほど、十月つごもりなるに、
紅葉、散らで盛りなり。
__嵐こそ吹き来ざりけれ宮路山
__まだもみぢ葉の散らで残れる
三河と尾張となるしかすがのわたり、
りたる夜おほきなるかきの木の
したにいほをつくりたれは夜ひ
とよいほのうへにかきのおちかゝりたる
を人々ひろひなとす宮ちの山とい
ふ所こゆるほと十月つこもりなるに
紅葉ちらてさかりなり
あらしこそふきこさりけれみやち山
またもみちはのちらてのこれる
参河と尾張となるしかすかのわたり
p.37 げに思ひわづらひぬべく
名古屋市緑区鳴海町付近。現在は陸地となり旧地形を留めないが、昔は潮の干満の激しい交通の難所。【新全集】
▶中間
ちうげん【中間】③どっちつかず。中途半端。【古・岩】
▶美濃
旧国名の一。東山道八国の一。今の岐阜県南部。濃州。【古・岩】
▶墨俣
岐阜県安八郡墨俣町、墨俣川の渡し場。【新全集】
▶野上
「野上」も遊女の里として名高い。【新大系】
岐阜県不破郡の垂井と関ケ原の中間付近。遊女の里として知られた。【新大系】
鳴海の浦を過ぐるに、夕汐、
ただ満ちに満ちて、今宵、宿らむも、
中間に、汐、満ち来なば、
「ここをも過ぎじ」と、あるかぎり走り
まどひ過ぎぬ。美濃の国になる境に、
墨俣と言ふ渡りして、野上
と言ふ所に着きぬ。そこに遊女ども
出で来て、夜一夜、歌、歌ふにも、
足柄なりし、思ひ出でられて、あはれに
のくになるみのうらをすくるにゆふ
しほたゝみちにみちてこよひやと
らむもちうけんにしほみちきなは
こゝをもすきしとあるかきりはしり
まとひすきぬみのゝくにゝなるさかひ
にすのまたといふわたりしてのかみ
といふ所につきぬそこにあそひと
もいてきて夜ひとようた〳〵ふにも
あしからなりし思いてられてあはれに
p.38 あはれに恋しきこと限り無し
ふはのせき【不破の関】美濃国不破郡関ケ原にあった関所。鈴鹿・愛発(あちら)と共に三関の一。【古・岩】
関ケ原の松尾の大木戸坂あたりが関の跡という。逢坂、鈴鹿とともに昔の三関の一。【新全集】
▶あつみの山
所在不明。『和名抄』に見える「厚見郡厚見郷」(岐阜市)の山とすれば、墨俣より逆の東方となる。
▶近江
あふみ【近江】②㋺旧国名の一。東山道八国の一で、今の滋賀県。江州。【古・岩】
▶おきながと言ふ人
滋賀県坂田郡に息長(おきなが)村(現在近江町)がある。その地の旧家であろう。【新大系】
孝標の知人であろう。滋賀県坂田郡息長村(現在近江町)の豪族でもあろう。【新全集】
▶犬上
滋賀県犬上郡の歌枕。【新全集】
▶神崎
滋賀県八日市市の一部という。【新全集】
▶野洲
滋賀県野洲郡野洲町。歌枕。【新全集】
▶くるもと(栗太)
大津市内。昔の国府の所在地。【新全集】
荒れまどふに、物の興もなくて、
不破の関、あつみの山など越えて、
近江の国、おきながと言ふ人の家に
宿りて、四五日あり。みつさかの山の
麓に、よるひる、時雨、あられ、
降り乱れて、日の光もさやかならず、
いみじう物むつかし。そこを
発ちて、犬上、神崎、野洲、くるもとなど
言ふところどころ、何となく過ぎぬ。
あれまとふにものゝけうもなくて
ふわのせきあつみの山なとこえて
近江国おきなかといふ人の家にや
とりて四五日ありみつさかの山の
ふもとによるひるしくれあはれ
ふりみたれて日のひかりもさやか
ならすいみしう物むつかしそこを
たちていぬかみかむさきやすくるもと
なといふ所々なにとなくすきぬ
p.39 湖の面、はるばるとして
琵琶湖。【新全集】
▶なでしま
不明。多景島、あるいは蓼島かともいう。【新全集】
▶竹生島
琵琶湖北部に浮ぶ島。景勝と行基建立の弁天堂で知られる。【新全集】
▶粟津
大津市の東南の湖岸から瀬田川あたりに及ぶ土地。【新全集】
▶暗くいき着くべく
旅のやつれ姿を人に見られないように、夜間入京するのが当時のしきたりだった。土佐日記にも「夜になして京には入らむと思へば」とある。【新大系】
旅のやつれを人に見られぬよう、暗くなってから入洛するのが当時の習慣である。【新全集】
▶申の時
さる【申】①時刻の名。いまの午後三時から午後五時まで。【古・岩】
▶関
逢坂の関。近江と山城の国境にあり、東海・東山・北陸への要衝。【新全集】
▶きりかけ
きりかけ【切り掛け・切り懸け】〘名〙①目かくしの板垣の一種。柱に横板を重ね合わせて打ちつけたもの。【古・岩】
▶丈六の仏
ぢゃうろく【丈六】①「一丈六尺」の略。普通の人の身長の倍で、化仏(けぶつ)の身長とされた。②立てば一丈六尺になる仏の座像。丈六の仏。【古・岩】
一丈六尺(約五メートル)の仏像。これは関寺の弥勒菩薩像のことで、扶桑略記の後一条天皇万寿四年(一〇二七)の条に「三月一日、沙門延鏡供二養近江国志賀郡世喜寺一、奉レ安二置旧造五大弥勒菩薩像一躰一」と見え、荒廃していた関寺が僧延鏡によって再興されたことが知られ、また、関寺縁起によると、延鏡は寛仁二年(一〇一八)に造仏を始め、治安二年(一〇二二)に伽藍に安置されたという。つまり、扶桑略記の記事に「旧造…」とあるように、堂舎の建設に先立って造仏がおこなわれ、作者が通過した寛仁四年(一〇二〇)十二月には、まさに「いまだあらづくりにおは」したわけである。【新大系】
一丈六尺(約五メートル)の仏像。【新全集】
なでしま、竹生島など言ふ所の見えたる、
いとおもしろし。勢多の橋、
みな、崩れて、渡りわづらふ。粟津に
とどまりて、師走の二日、京に入る。
「暗くいき着くべく」と、申の時ばかりに
発ちて行けば、関、近くなりて、
山づらに、かりそめなるきりかけと
言ふ物、したるかみより丈六の仏の、
いまだ荒づくりにおはするが、
しまちくふしまなといふ所の見え
たるいとおもしろし勢多のはし
みなくつれてわたりわつらふあはつ
にとゝまりてしはすの二日京にいる
くらくいきつくへくとさるの時許
にたちてゆけは関ちかくなりて
山つらにかりそめなるきりかけと
いふ物したるかみより丈六の仏の
いまたあらつくりにおはするか
p.40 顔ばかり見やられたり
諸注「所在なさそうに」のような訳を当てるが、堂舎がまだ建設中のことだから、どこのお寺ということもない、ただの「山づら」に、の意であろう。【新大系】
ここがどこということもなく。そんなことには無頓着で。【新全集】
▶三条の宮
一条天皇第一皇女脩子内親王邸。【新大系】
一条天皇第一皇女修子内親王。母は定子皇后。当時二十五歳。その御所を竹三条と見て、押小路南、東洞院大路の東、すなわち左京四坊二町にあったとする説(角田文衛『王朝の映像』)もある。【新全集】
▶深山木
みやまぎ【深山木】深山に生えている木。【古・岩】
離れて、いづこともなくておはする
仏かな」とうち見やりて過ぎぬ。
ここらの国々を過ぎぬるに、駿河の
清見が関と、逢坂の関とばかりは
なかりけり。いと暗くなりて、三条の宮の
西なる所に着きぬ。ひろびろと
荒れたる所の、過ぎ来つる山々にも
劣らず、大きに恐ろしげなる
み山木どものやうにて、
はなれていつこともなくておはする
ほとけかなとうち見やりてすきぬ
こゝらのくに〳〵をすきぬるにするか
のきよみか関と相坂の関とはかりは
なかりけりいとくらくなりて三條
の宮のにしなる所につきぬひろ〳〵
とあれたる所のすきゝつる山々にも
おとらすおほきにおそろしけ
なるみやま木とものやうにて