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歌舞伎「壇浦兜軍記~阿古屋」あらすじと解説、玉三郎の芸談。

歌舞伎「壇浦兜軍記~阿古屋」あらすじと解説、玉三郎の芸談。

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歌舞伎「壇浦兜軍記~阿古屋」のあらすじや内容、見どころを解説いたします。阿古屋の数々の名演を残した五代目・坂東玉三郎の芸談もご覧ください。

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目次

歌舞伎「阿古屋」のあらすじ・ストーリー

平家の武将、悪七兵衛景清は、壇ノ浦の合戦の後、源氏の残党狩りから逃れて姿を隠している。その景清の愛人、阿古屋は京都、五条坂の遊女であるが、源氏方に捕えられて堀川御所まで連行される。

代官の畠山重忠、そして助役の岩永左衛門の前に引き据えられた阿古屋は、「景清の行方を白状せよ」と取り調べを受ける。

重忠は、阿古屋を厳しい拷問に掛けようとする岩永を遮り、阿古屋に箏・三味線・胡弓の演奏を命じる。阿古屋の演奏を聴いた重忠は、その音色に少しの狂いもないことから、「阿古屋は景清の行方を本当に知らない」と判断し、取り調べの終わりを告げる。
 

岩永の人形振り

岩永左衛門は文楽の人形のように演じます。演じる役者の後ろに二人の黒子(くろご)が付き、まるで人形遣いが文楽人形を操るかのように見せます。

 

阿古屋の三曲演奏の歌詞

箏:「蕗組」(ふきぐみ)※替え歌

かげというも 月の縁
清しというも 月の縁
かげ清き名のみにて
映せど 袖に宿らず

 

三味線:「翠帳紅閨」(すいちょうこうけい)※謡曲「班女」より

翠帳紅閨(すいちょうこうけい)に
枕ならぶる床(とこ)の内
馴れし 衾(ふすま)の
夜すがらも
四つ門の後 夢もなし
さるにても 我がつまの
秋より先に必ずと
仇(あだ)し ことばの人心(ひとごころ)
そなたの空よと 眺むれど
それぞと問いし 人もなし

班女とは前漢成帝の寵姫班婕妤のこと。帝の愛を失ったわが身を秋になって捨てられる扇に譬えた、哀切きわまりない詩(扇歌行)を作った。以来、扇は寵を奪われた女の嘆きや閨の怨みの象徴とされ、班扇・秋扇の語を生み詩に詠まれた。「班女」はこうした扇の故事を主想とし、班扇にちなむ朗詠・早歌(拾菓集など)の名句をちりばめて、班女とあだ名された遊女の、ひたむきな恋を描く。(※『新日本古典文学大系 謡曲百番』(1998年、西野春雄、岩波書店、212頁)

 

胡弓

吉野、龍田(たつた)の花紅葉(はなもみじ)
更科(さらしな)、越路(こしじ)の月(つき)雪(ゆき)も
夢とさめては あともなし
仇し野の露 鳥辺野(とりべの)の煙は
たゆる時しなき これが浮世の
誠なる

 

阿古屋のサワリの詞章

何事も昔となる

何事も昔となる

恥ずかしい物語
平家の御代(みよ)と時めく春
馴れにし人は山鳥の尾張の国より長々しき
野山を越えて清水(きよみず)へ
日ごと日ごとの徒歩(かち)詣で

下向にも参りにも
道は変わらぬ五条坂
互いに顔を見知り合い
いつ近づきになるともなく
羽織の袖のほころびちょっと
時雨のからかさ お安い御用
雪のあしたのたばこの火
寒いにせめて お茶一服

それがこうじて酒(ささ)ひとつ
こっちに思えば あちからも
くどくは深い観音経(かんのんきょう)
普門品(ふもんぼん)第二十五日の夜(よ)さ 必ずと
戯れのことばを結ぶ名古屋帯(なごやおび)

終わりなければ始めもない

あじな恋路と楽しみしに
寿永の秋の風立ちて
須磨や明石のうら舟(ぶね)に
漕ぎ放れ行く縁の切れ目
思い出だすも つかえの毒
ああ うとまし と語りける

 

平家ご盛んの時だにも

平家ご盛んの時だにも
人に知られた景清が
五条坂の浮かれ女(め)に
心を寄すると言われては
弓矢の恥 と遠慮がち
ことさら今は日陰の身
私はもとより 川竹(かわたけ)の
あるが中にも つれない親方
目顔(めかお)を忍ぶ格子先(こうしさき)
編笠(あみがさ)越しに まめにあったか
あい お前も無事にと
たった一口

言うが互いの比翼連理
さらばという間もないほどに
せわしない別れ路は
昔の衣ぎぬ ひきかえて
木綿木綿と落ちぶれし
身の果て あわれな物語
ああ おはもじと さしうつむく

 

芸談① 五代目・坂東玉三郎

※引用(各見出しは引用者補):NHK・Eテレ「にっぽんの芸能 『伝心~玉三郎かぶき女方考~“壇浦兜軍記 阿古屋”』」(2018年5月25日放送)

 

傾城(けいせい)について

傾城が、一人の思い人に心を立て通すということはですね、揚巻が、助六に対して、命がけで向かっていく、夕霧は夕霧でね、こう、柳のように、嫋々(じょうじょう)と伊左衛門を思っていく。

傾城というのは、もっと身分を落とせば、遊女でございます。まあ、身を売っているということなんですね。で、どんな男の人のところにも行かねばならない存在であるにもかかわらず、命がけで、一人の男を思い、そして操を立て、誰に何を言われようとも、自分の真実に向かって突き進んでいくというところがお芝居になっていくわけですね。

これがね、たとえば、大きな国の貴族であるとか、身分の高い人の女性が、身分の高い人に対して操を立て通すのは当然のことですけども、傾城が立て通すというところに、歌舞伎味も出てくるんじゃないですかね。

なぜ、女形が傾城を務められらばよしとされるかというとですね、どんな身分の人、どういう立役が来ても、その立役と、対峙できるかということの、女形の心、あるいは技、作法というものを身に付けるという意味で、傾城ができたら、女形の一人前と言われているんです。

潔白であったりとか、苦界に身を沈め、その中から立ち上がってきていながら、凛としているところというのが、この、逆説的な面白さじゃないでしょうか。

こうして見てまいりますと、修行を積んで、究極の女性として、傾城というお役があるわけです。考えてみると、女形の修行にも重なって見えてきます。

歌舞伎の女形が目指すたいへん難しい演目ですが、これからも将来、たくさんの若い方々に、演じていただきながら、お客様に楽しんでいただけるのが、私の望んでいるところでございます。

 

阿古屋の三つの要素

「阿古屋琴責めの段」での三つの大きな要素があると思うんです。

一つ目は趣向でございます。演出的なことで、お芝居がなお、面白く、深く、興味深く見られるように工夫してあるということが、趣向ということなんです。

拷問を三曲にするということ自体が趣向ですね。清らかに奏でられれば、阿古屋の心に偽りがないということで、その、趣味的なことからできあがった不思議なお芝居だ、ということが大きくありますね。

それからもう一つは、文学的な文章の美しさということが大きくあると思います。

そして、何よりも、お客様がご覧になって、この阿古屋の面白さというものを見られる三つ目が、この楽器の演奏ということになりますでしょうか。

傾城がやらなければならない歌舞音曲を、自由自在に操るということが、「阿古屋」独特のものです。

この三つが、「阿古屋」の大きな要素になっているんじゃないでしょうか。

 

阿古屋の出

御門に下せし囚人(めしうど)かご
すだれを上げて引き出だす
 
(きりきり 歩め)
 
姿は伊達のうちかけや
いましめの縄、引きかえて
縫いの模様の糸結び
小づま取る手もままなれど
胸はほどけぬ 思いの色
形は派手に 気はしおれ
 
(歩め)
 
筒に活けたる牡丹花(ぼたんか)の
水上げかぬる風情なり

 
この、阿古屋の出のところの文章は素晴らしくできておりまして、「いましめの縄ひきかえて、縫いの模様の糸結び」、――いわゆる、こう、縄をかけられているんじゃなくて、阿古屋が着ている衣装に刺繍がされている、これ自体が、縄と同じ意味なんじゃないか、っていうふうな、文章に書かれていて……。

もしかしたら、刺繍をしていた人たちも、心に縄をかけられて一生刺繍をしていたんじゃないか、っていうような、不思議な感覚にとらわれるんですね。それが、演じておりまして、「ああ、なんて素晴らしい出の文句なんだろう」。

まあ、ここね、お客様は阿古屋の出に目をひかれてまして、文章はなかなか耳に入ってこないと思うんですけれども……。

「小づま取る手もままなれど、胸はほどけぬ思いの色、形は派手に、気はしおれ、筒に活けたる牡丹花の、水上げかぬる風情なり」となっていますね。

ですから、「胸はほどけぬ」、ああ……、「思いの色」(※胸に手をあてる)、「形は派手に」(※胸にあてた手を開く)、「気はしおれ」(※再び閉じる)。

筒に牡丹が活けられているんですけれども……、素晴らしい花が咲いているんだけれども、水が上がらなくて頭が垂れている……。こんなこと書かれたらね、そういうふうに、目的をもって演じなければならないんですね。ですけども、この文章の美しさに乗って登場できるという、「阿古屋」独特のものです。

 

阿古屋のケレン的要素

いや、もうね、この阿古屋……、ある言い方にすると、景物と言われてね、ケレン的(※見せ物的な)要素もあるんですよ。いわゆる、今まで修行してきたものを……、三曲を弾いて、お客様に見せるわけでしょ。だから、そういう意味もある、景物と言われているくらいのものなんですけども、この文学性っていうものを改めて理解すると、すごい作品だなと僕は思うんです。

ですから、その、三曲を弾くということがケレンにならないように、あたかも、流麗に、当然のごとく、そこが、音楽的に流れていくようにしていくことが大事なんじゃないでしょうか。そうすれば、文学的な作品だと思うんです。詩的な作品。成熟した女が、語ることによって、それがふつふつと目の前に浮かんでくるというのが、この「阿古屋」の素晴らしいところだと思います。

 

箏の演奏について

知性というか、学識があるんでしょうね、この阿古屋って。「箏を弾け」って言われたときに、「あ、蕗組を弾こう」。で、蕗組のことを、景清の替え歌に、即、できるんですね。ひとつの言葉遊びなんでしょうね。

これを、「かげ、きよ」……、「かげというも月の縁」、いわゆる、影っていうのは、月がなくちゃできないでしょ、で、月というのがあったら影がでるでしょ、月がいても、私の袖に影が映らないっていうのは、「何があろうとも、景清がいません」、で、これね、瞬時にして彼女思いつくんですね。だから重忠も、「ああ、蕗組の唱歌を景清にすり替えて、あなたは『景清がいない』って言ったんですね」ってことを、重忠は理解するんです。

役をやるというよりも演奏するということに終始してしまいました。そのうちに、3度(※約80回)ほどやってきますと、阿古屋の中に曲が入ってくるということになるんですね。阿古屋になり、曲に精通して曲を奏でることに専念したほうが、阿古屋としては、良いということが、あとあと分かってくるわけです。ですから、役者として一生懸命演奏するんじゃなくて、阿古屋として、曲を無心で奏でるというところが、阿古屋が一番良いところだということが、自分で理解できるわけです。

 

サワリ「終わりなければ始めもない」

サワリってね、あの、いわゆる、自分の心情を振事(ふりごと)で見せていくんですね。だから、義太夫が語っているところを、ま、途中でしゃべるときもありますけど、義太夫が語っているところを、その心情を振事で見せていく。ただ、振事なんですけども、サワリは踊りになってはいけないんです。体の形の語り。だから、昔は振付師が作ったそうです。それが、体が語っていなければいけない。踊りになってはいけない。で、体で物語をするのがサワリです。

こんなこと言うと大変失礼なんですけどもね、お客様にはあまりこの歌詞とやってることが、景清との馴れ初めと別れだけに見えてしまうんでしょうけども、やっぱり、文章が素晴らしいんですね。

「参りにも下向にも、道は変わらぬ五条坂。互いに顔を見知り合い、いつ近づきになるともなく」、ふっと、なんとなく、「羽織がちょっとほころびてますけど、縫いましょうか」、「ああ、ありがとう」、「あ、雨が降ってきましたね、どうぞ傘はいかがですか」、「寒いですから、どうぞ火鉢で、たばこなんかいかがですか」、それが、「あの、お茶いかがですか」、それが、「お酒いかがですか」って言っているうちに、だんだん恋仲になっていったということをね、あの、ほんとに五分と経たないところで、馴れ初めから、帯を解いて、二人で「終わりなければ始めもない」、いわゆる、「時間を忘れるほどの、二人の愛の時を過ごした」って言ってるんです。

「終わりなければ始めもない」、それぞれの方がお感じになることだと思うんです。でも、私としては、「時がない」。もう、いわゆる、この世になくなるほどの二人の愛の時間、この世の存在を忘れるほどの。そして、「あっ」と思ったらね、秋の風が吹いて引き離されてしまうというところまでね、五分も経たないうちに語れるって、この文章の素晴らしさっていうものに、「ああ、なんて……。ここに追いつけるかしら」と思いながら一応やっているんですけども。

 

三味線の演奏について

三味線は翠帳紅閨を弾くんですけども、これも瞬時にして思いつくんですけども、能の「班女」から取りまして、男女の美しい愛の寝姿というか、そういうのを表現しているんですね。これはやっぱり、「景清と私はこれだけ美しい愛人関係であった」ということを、瞬時にして三味線で表現している。

私は、(※桐竹)紋十郎先生の「阿古屋」を、ちょうど玉三郎になりましてから(※十代後半)、拝見いたしましたけれども、出てくるだけで、お客様が「やんや」と拍手をし喜び、どよめいていたというのが忘れられません。

ですから、人形にはまったく表情がないじゃないですか。肩がこういうふうに(※上下に)動くこともないんですね。こう(※体ごと向きを変えるように)しか動かない。それでいても、柔らかい表情が見えてくるっていうことが、たいへん感動的だったんです。

ですから、人形のようにはできませんけれども、「その風情、そういう雰囲気が出ればな」っていうふうに思っていますし、それから、この阿古屋の琴責めに対して、箏を弾く、三味線を弾く、胡弓を弾いてる中で、「景清がいないんだ」ということをひたすら弾く、ひたすら弾いている響きの中にむなしさとか、はかなさとか、距離の長さが、あるいは果てしない空間の中で、いないと思ってるんだということが分かるようになることが目標じゃないでしょうか。

 

サワリ「言うが互いの比翼連理」

平家と、源平の世界で、あちら(※景清)も人目を忍んで、あたし(※阿古屋)もこんな身分だって言って離れ離れになってしまった時に、格子先、編笠越しに、「元気だったかい」、「あなたもご無事でしたか」、これだけがね、二人の愛の時間だった、「さようなら」と言う暇もない、このサワリさえしっかりしておけば、阿古屋のすべてが見えてくる。

 

楽器の演奏について

どういう演奏をするかとか、どういうふうに弾くかっていうことは、お稽古の段階として、役者がやるべきことなんですけれども、結果、やりこんでいった時に、透明なものが流れていくというか、透明感になっていくっていうことじゃないでしょうか。

だから、何をしていたかとか、どんな演奏をしたかとか、どんなにうまかったか、っていうことを通り抜けるんですね。遥かな、想像もつかない遥かな時空のことを考えながら、演奏する。それが、はかなく空しい、果てしもない広さの中に響いていくことによって、空しい。(※景清が)いない。(※景清の)居場所が分からない。どう問いただされても、これしかない、というところに行くという意味では難しい役かもしれませんね。

これが、演劇の不思議なところで、演じている役者は消えていかなければならないんですけれども、演じ手の魂だけは、半透明に見えていかないと、役の中に魂が入っていかないんです。でも、お客様もそうでしょうね。阿古屋を見ているけれども、どこかその役者の魂と交感しているところが見えるから、「だれだれの阿古屋」という評価になるんでしょうね。その、虚実皮膜というか、何を見ているか分からない、演じ手の魂なのか、阿古屋の魂なのか……。

でも、あたかもね、「阿古屋の魂だ」って思っていただいていいと思うんです。しかし、どこを基盤に楽器を鳴らして……、あの、役として、なっていくかということは、自分の人生を基盤にして役を立ち上げていくわけでしょ。自分をゼロにしては考えられないんです。でも、自分が見えなくなるところまではやっていかないとダメなんですね。

 

段切れについて

まがり偽る心をもって、この曲をなせる時は、その音色、乱れ狂う。箏の形を縦に見れば、みなぎり落つる滝の水。その水をくれる心の水責め、三味線の二上がりに、気をつりあげる天びん責め、胡弓の弓の矢がら責めと、品を替え責むれども、いっかな乱るる音(ね)締めもなく、調子も時も相の手の、秘曲を尽くすひと節に、彼が誠は表れて、知らぬことは知らぬに立つ。調べただして聞き取ったる詮議の落着、このうえにも不審あるや。
 
道理にかないし ことばの調べ
ぴんともしゃんとも岩永は ばちびん頭をかくばかり
 
重忠かさねて
なお、このうえにそれがしが、尋ね問うべき仔細もあれば、ずいぶんいたわり、屋敷へ引け。
 
ハア。遊君阿古屋、立ちませい。
 
冥加にあまる 御情け
つどつど お礼をのべ棹に
長居はおそれ このままに
すぐに御前の三下り
秩父は正しき本調子
撥(ばち)、利生(りしょう)ある糸捌(さば)き
直(すぐ)なる道こそ
ありがたき

 
(※重忠に)「構いなし」と言われた時に、「これだけ頭を使って、これだけ技術を使ってやったことで解放される」、「ああ、私はこれで良かったんじゃないか」(※と阿古屋が思える)。だから、終わった時に、どこか清々としたところがありますよね。「もうこれで、私は等身大の人間として生きていける」、「解放されていく」というところが、この段切れのとこでしょうね。

 

阿古屋のDVDおすすめ

阿古屋は、何度も見るうちに面白さが分かってくる演目です。坂東玉三郎の阿古屋は映像でも楽しめます。

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